見出し画像

傷ついたと思ってしまうことの罪悪感


昔、知り合いの人から仕事のことでわけのわからない絡まれ方をしたことがある。私がまとめていたとあるプロジェクトのやり方について、突然、感情的な電話がかかってきた。直接その人が絡んでいないプロジェクトだったのだけれど、その人の知り合いのスタッフを何人か入れた。そのことについて「私になんのことわりもなく、勝手にスタッフに仕事を発注した」というような趣旨のことを電話口でまくしたてられた。スタッフは全員フリーランスで、その人の会社に所属しているわけでもないので(なんなら、その人もフリーランスだ)ことわりを入れる必要もないと思っていたので、心底驚いた。

相手は私よりもキャリアも能力ある人だったので、諭されるとか間違いを指摘されるというなら理解できる。でも、この件は違っていた。何にそんなに怒っているのか?まったくわからない

電話口のでは表面上は「自分が懇意にしているスタッフに仕事をふるなら、その前に一言あって然るべし。無礼なやつ」ということなのだが、それじゃないんだろうなぁという違和感だけがあった。だから混乱した。その後、会って話をしてはじめて、そのプロジェクトの内容に関して自分のアイディアを盗まれたという勘違いがあったことだと判明し、もちろん、アイディアなど盗んでいないので、誤解がとけて相手から「ごめんー」と謝罪を受け一件落着した。
電話で感じた違和感は、その人の「奪われる恐怖」「蔑ろにされる恐怖」だったわけだけど、この一件で私は自分が思っている以上に傷ついたのだ。そのことに気がつくのは、それから何年もたってからだった。

久しぶりにこの1件を思い出したのは、友人が自分すら気が付かないままに静かに傷ついている姿を見たからだ

自分が傷ついていたのだということに人は意外に気が付かないものだ。
日常の中の「ムッとする」とか「理不尽だ」というようなことはキャッチできても、心の深い部分で自分が傷つき悲しんでいることには気が付かない。

悲しみというものが人に与えるダメージがそれだけ大きいから、その痛みを無意識に感じないようにしてしまうものなのだろう
特に、相手が好きな人だったりすると、その痛みを感じることが相手を責めることになるのではないか?という罪悪感も生まれる

普通なら、傷が深いほど相手への攻撃、否定へとくるりと変わる
でも、攻撃したくない。否定したくない。嫌いになりたくない。
そう思う相手だったら?

「自分が傷ついたことを受け入れるということは、相手を自分を傷つけた悪いやつにする」という構図にさらに痛みを増幅させる人もいる。
親子関係などでよく見られるものだけど、あの時の私はまさにそれで、慕っていた人から傷つけられたと思うことで、さらに悲しみが深くなるのが耐えられなかったのだろう。だから、一件落着、誤解が解けたということで終わらせてしまって、自分の傷には見て見ぬふりをした


自分が傷つき悲しむことで、相手を傷つけ悲しませてしまう
その後ろめたさにまた傷つく
相手を悪者にしてしまう罪悪感

万華鏡のように続く罪悪感
迷路のように入り組んだ痛み

============
傷ついたと思っていいのだ
傷ついて悲しいと思っている自分に気がつくことからしか迷路から抜け出す方法はないから

「自分が傷ついたことを受け入れるということは、相手を自分を傷つけた悪いやつにする」という勘違いが迷路を作ったのだから

本当は自分が自分につけた傷なのだ
そのことに気がつけば迷路は消えてなくなる

傷つき悲しむ自分を受け入れること
そうして自分の傷と向き合うことで、他人の傷を請け負うこともできないのだということを私たちは学んでいく

だから、傷ついたと思っちゃいけないなんて思わなくてよいのだ
傷すらも大事な自分の一部なのだから





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?