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物語とキャラクターとデジタルゲームの覚書き


はじめに


Baldur's Gate 3 の攻略記事を書き続けていると気が狂いかけたので最近考えたことを書き綴る。僕の脳は何かをまとめる作業につくづく向いていない。

ラフな内容だから有料記事の予定だったけど、だれかの思考を刺激し、下敷きになることもあるかとおもい無料公開にします。僕は、公共的に価値のある文章は無料で読める状態にあるべき派。

ゲームレビューだと、特にキャラクターについてはそいつが魅力的かどうかに終始しがちなので、個人の好き嫌いを越えた議論がもっと交わされようになるといいね。


物語の穴を読み抜く


via. 『僕の心のヤバイやつ』第12話「僕は僕を知ってほしい」より、先行場面カット&あらすじが公開!


ゲームにかぎらず、物語系コンテンツを議論する難しさは物語読解が「解釈」を含むことにある。

つまり、登場人物の本心や行動の意図が明示されることはなく、明示されたとしてもだいたいはひとりの人物の視点、語り手の叙述、ひとりの登場人物に寄せた表現なため、その意図や本心はあくまで視点人物の解釈=フィルターを通したものだ。

僕が書いたなかでは桜井のりおの『僕の心のヤバいやつ』はこの視点人物(市川)の語り=解釈とそのズレを巧みに活かしている。

本作を市川の語りに乗って素朴に読めば、冒頭から Karte.14「僕は何もできない」は主人公が自分の心のヤバいやつが山田への恋心だと気付く過程に思えるが、市川の語りに気を付けて丹念に読むと、後日談の Karte.15「僕は抱きしめたい」までは山田が少しずつ市川の不器用な優しさに気付いていくなかで恋心をほぼ同時に自覚する過程でもあることに気付くはずだ。

山田杏奈が恋に落ちた瞬間を批評家が『僕ヤバ』を3周して探した話

また、登場人物が「わたし嬉しい!」と逐一主張したり、「ヤスオは悲しんだ」のような直接的説明がやたらと多い作品は端的に出来が悪い。

嬉しい、悲しいといった単純な語以上のなにかを表現するために身振りや表情や目線の動きや「間」や声の調子といった言外のディティールを積み重ねるのであって、優れた制作者は読者の想像力を「ハック」してかぎられた情報からよりゆたかで複雑なものを読者の頭のなかに惹き起こす

僕が書いたなかではたみふるの『付き合ってあげてもいいかな』がこのディティールによる想像力の喚起がとても巧い。

恋人の環と優梨愛は彼女たちの視点・内面から物語られることがない。そのため、みわや冴子がなんらかのハプニングで不安に陥ったときは読者もまた彼女たちと同じ視点で「說明」のない恋人の心のうちをさまざまなディテールから推測するよう促される。

それはまさしく現実の恋愛関係そのもので、意味のあるディテールと「說明」のなさにより本作ほど作品世界を生られる鑑賞体験を可能にした作品を僕はほとんど知らない。

約束された傑作恋愛マンガ、『付き合ってあげてもいいかな』批評的感想

要するに、物語を読むことには「視点人物の解釈」「読者の解釈」が組み込まれており、雑な共感の求めあいならまだしも精緻な議論ではどうしても物語読解のこまかいちがいが障害になる。とくに物語としてハッキリとは語られない部分、僕はこれを「穴」と呼ぶけども、それを読者がどのように想像力で補うかで全体像(キャラクターやストーリー)はさまざまに変わるからだ。

たとえば、Cyberpunk 2077 のジョニー・シルバーハンドの記憶痕跡はいわゆる「信頼できない語り手」で知られる。オルトの記憶痕跡からもその記憶=回想シーンの曖昧さ(視点人物の解釈)を指摘されており、実際のジョニーがプレイヤー同様にアラサカタワーをオラつきまわれたかは正直疑わしい。

また、オリジナルは 50 年以上前の人物で、V 以外には記憶痕跡の姿がみえないこともあり実はその確たるパーソナリティーが意外と掴みづらい。プレイヤーが眼にするほとんどのジョニーは V という特定の人物と接する何らかの意図や感情をもった存在なため、その「断片」をジョニーの全体像とするには想像力の飛躍(読者の解釈)が要るだろう。

ひょっとしたら、ローグの語るジョニー、ケリーの語るジョニー、V の身体を借りて行動するジョニーの記憶痕跡といった「断片」をうまく繋ぎあわせることでその人物像の「穴」をこれまでとはちがう想像力で解釈できるようになる、かもしれない。

僕の『僕ヤバ』読解もその一例だが、テクストの緻密な読み抜きによって既存のイメージを塗り替える試みがスリリングでおもしろいのはたしかだ。


趣味という堕落の場


@マンガワン/裏サンデー


物語にはさまざまな「穴」がある。

登場人物の心情はその最たるもので、読者はさまざまなディテールから「おそらくはこう」という見立てで「穴」を補うにすぎない。制作者視点ではそれが自然に喚起される演出を仕掛け、ときに確定的なディテールをあえて出さないことで読者の考察を誘う。山田杏奈がいつ恋に落ちたか問題には「穴」の残し方とその「答え」を導くディティールの散りばめかたの妙が冴えている。

物語解釈では考察の組み立てよりも「穴」の見極めの方が難しい。どこまでが根拠をもって示せる範囲でどこからが解釈次第の「穴」なのか、その見立ては限りなく白にちかいグレーか、黒にちかいグレーか。その見極めには、自分の想像力を抑制して「読み」を検証する独特なあたまの使い方が必要だ。

僕はひとの趣味を堕落の場と考えている。

趣味が家事や労働とちがうのは、おなじ活動でありながらもやることを半強制されず、その成果や進捗に責任がともなわないことだ。だから、自分の好きなことを好きなようになんの気兼ねもなくできるし、多くのひとはその自由を望む。

そのため、趣味=堕落の場では活動に没入するためにいかに認知上のコストを下げるかが問題になる、とは以前書いたとおり。

趣味に没頭するにはすでに慣れ親しんだものでないといけないのだ。

連載批評3:趣味も語らう者がいなければ

もっとも、競争志向、上達志向、収集志向の強いひとは趣味でも目標を立ててその成果や進捗に責任を課し、生活基盤を危うくさせるほどのコストと熱量をかけることもある。コミュニケーション志向の強いひとも帰属先によってはそうなりえるだろう。生活基盤を危うくさせるほどの情熱的な活動を「趣味」と呼べるかは正直悩ましい。

物語を読むうえでは、自分の想像力を抑制して読みを吟味することは没入=堕落の妨げになる。堕落の場では自分の好きなものを好きなように解釈して作品世界に沈潜することがすべてなので、自分の読みを反省的にとらえ、そのひとつひとつに根拠をもとめてより妥当な解釈に叩き上げることは不要だ。

「このアニメ映画の主人公は戦後を生きた◯◯監督の自己投影で〜」というベタな天才観の作品解釈がいまだに共感を集めるのは、集団制作や商業作品の面を無視し、作品の「穴」をみないわかりやすさゆえだろう。

ある物語解釈をなにをもって正しいとするかはひとにより意見がわかれる。

共感や数字(たとえば PV や Like の数)がすべてなひともいるが、僕自身は作品内の根拠に支えられているかぎりどんな解釈もありえるべきだし、読みの多様性はそれにより確保されると同時に制限されるべきだと考える。どのような解釈もありえるし、あってしかるべきだが、作品内の根拠という楔を打つことである種のアナーキズム(読者は物語を好きに読んで自由に解釈してよい)を否定し、より良い解釈とより悪い解釈という評価軸を導入する。

その前提にはあらゆる読み方=解釈が「正解」ではないがより良い「正解」には近付けるという作品の実像への希求心がある。技術的には、繰り返しになるが自身の想像力を抑制して物語の「穴」を見極めることが必要だろう。

問題は、自分の読み方を「正解」としないことも、想像力をコントロールすることも、物語の「穴」を見極めることもそれ自体は楽しくないことだ。作品に没入しながらも没入を否定するという意味では快楽の否定といってもいい。

趣味の世界を突き詰めると楽しさでは割り切れない領域と向きあう必要がある。楽しむだけでは上達しないし、競争に勝てないし、結果を残し続けられもしない。

物語読解もおなじで、作品をあるラインを踏み越えて理解するなら没入感の快楽を手放す必要がある。あたまのなかで演じられる物語体験は作品そのものではないからだ。


キャラクターの人間らしさ


Cyberpunk 2077

人間がよく描けている、という評言がある。

文芸や映画などではむかしから使われる定型表現だが、何を根拠に人間がよく描けている、描けていないとするかは評者の胸先三寸であり反駁不可能なため今ではあまり好まれないはずだ。実際「人間が描けている」と Google 検索すると反論めいたものが僕の検索環境では上位にくる。

たとえばこういうの。

反骨精神のようなものを描いたり、権力に一人立ち向かうキャラクタを描いたりする場合も一般的だ。多くは誇張され、美化され、そしてなによりも、人間味あふれる印象を付加しようとする。そう、それが「人間味」という添加物なのだ。現実の世界に生きる人に、はたして人間味はあるのだろうか?

「人間が描けている」という幻想。【森博嗣】連載「静かに生きて考える」第18回

もちろんこの評言のマズさは判断根拠が評者の「人間理解度」にあり、その深浅をはかる物差しが一般的にはないため、人間が描けてないと批判する場合はとくにガード不能の年長者&権力者マウントとして機能することにある。

だが、その一方で、フィクショナルなキャラクターに「人間がよく描けている」というほかない強烈な魅力を感じたことのあるひとも多いはず。だから考えるべきは、キャラクターの魅力とはなんなのか、ひとは物語からそれをどう受容しているかだろう。

キャラクターはそもそも作品内では完結しない。

繰り返すが、制作者はディテールを積み重ねることで受容者の脳内に印象的なエピソードを形成する。キャラクターの心情や行動の意図をはじめ、物語に残された「穴」が想像力で埋められることにより骨としてのディテールが肉を纏う。

もちろん、物語の登場人物、とくに主人公のイメージ形成を意図的に中断させるアンチ・ロマン的な表現技法もあるにはあるが、受容者の想像力を喚起させることなしにキャラクターの魅力をつくることは難しい。Armored Core 6 のコーラル酔いした幻覚者がいかに「穴」をユニークに埋めて作品を味わい尽くしているか想起しよう。

そのため、制作者のイメージが受容者の脳内にそのまま投影されることはなく、受容者の想像力から切り離された物語のキャラクターもまたありえない

キャラクターの魅力を語る難しさがここにある。

つまり、制作者が作品のディテールによってしか受容者のイメージに関われないように、受容者もまた作品のディテールを抜きにキャラクターを語ることはできない。が、趣味が堕落の場であり、没入の快楽に浸れる場だからこそ自分の脳内イメージをそのままキャラクターとして語りがちだ。実際の描かれ方ではなく、自分の想像したイメージを自由奔放に語ることはなにより気持ちがいい。

キャラクターの魅力がいかに受容者を想像させるかと考えた場合、その断片的なディテールには一定の法則性をもった幅=ギャップがあると良い。

たとえば、ジョニー・シルバーハンドとの初遭遇時の印象は V=プレイヤーにとって「敵」そのものだ。しかも、回想シーンでの振舞いは傍若無人でほとんどの物事に辛辣極まりない言動をとるが、退役軍人と終盤の V には共感的で、おちゃめな面もまれにみせることが造形上の幅として機能してその魅力をかたち作っている。

ローグによる「マッチ箱と CHOOH2 の缶を手にした子供」という人物評はジョニーの記憶痕跡の振舞いとしては正鵠を得ている。

また、山田杏奈は中学生離れした美貌とボディラインをもつスクールカーストの「頂点捕食者」だが、常軌を逸した大食漢と天真爛漫さにくわえ、おどろくほどの不器用さという造形上の幅をもっている。この作品の視点人物である市川が「山田らしさ」を何度も強調することから考えてもこの幅が意図的ないのはまちがいない。

キャラクターが意外な一面をもつことから生まれる幅は受容者の想像力を刺激する。それが昨今のファンアート文化と相性がいいのはもちろんだが、その幅によってひとは人間としての多面性を感じ、そのいくつかに共感することで人間らしさを覚えるのかもしれない。

人間がよく描けている、とは、そのひとの人生観がキャラクターのディテールにより発火したときの感嘆詞だ。


ロールプレイとコンパニオン


Sarah Morgan | Starfield Wiki | Fandom

僕が運営中の Discord サーバーに参加されている阿呆さんの記事が興味深かった。

いわゆる RPG のロールプレイは意外と難しいよねという話で、Pathfinder: Kingmaker のようにメカニクスと深く結びついていればプレイヤーキャラクターの解像度がおのずと高まるが、Starfield のようにロールプレイが縛りとしてしか機能しないゲームだと積極的な「なりきり」が必要になる。だから、The Witcher 3 や Disco Elysium のようにプリメイドな人物をロールプレイするぐらいの距離感が筆者には心地良いという内容だ。

Starfieldの主人公は、万能が故に何者にでもなれる。ハッキングが得意で、力持ちで、マインドコントロールで相手を説き伏せ、面倒なら暴力で解決するのだ。

(中略)

ただ、何者にでもなれるがゆえ、主人公の解像度は低くなってしまう。「この主人公には、こういうバックグラウンドがあって…」「こういうプレイングを主にやっていこう」みたいに”なりきる”には、プレイヤー自身による強いこだわりが必要になる

『自分で作る主人公』に対する苦手意識を言語化してみた結果、やっぱり苦手だと感じた

ディスコでも宣伝してみたが、まあ、ロールプレイのやり方は控えめにいっても十人十色だ。容姿も含めて自分自身が PC なためロールプレイの意識がそもそもないひともいれば、好きなマンガやアニメのキャラクターでいつもプレイするひともいるし、周回毎にコンセプトを固めてからプレイするひともいる。僕個人はなりたい自分とでもいうべき微妙な距離感を好むので、阿呆さんほど苦手意識はないが気持ちはわかるぐらいのスタンスだ。

RPG における PC はキャラクターとしてきわめて特異な位置にある。ほかの物語系アートフォーマットとちがって受容者がそのプロフィールとディテールに関与できるからだ。

僕の雑な考えだが、PC の造形には以下の 3 つの要素が関わっている。

  • 作品による規定

  • プレイヤーによる選択と規定

  • 作品から許容された行動の自由度

たとえば、Disco Elysium では名前も容姿も年齢も背景も作品によって規定されたプリメイドなキャラクターだが、その能力と思想のキャビネットはプレイヤーによる選択と規定が許されており、物語中の「振舞い」や「解決手段」に自由度があることでロールプレイの余地を残している。

一方、Starfield では作品による規定がほとんどなく、プロフィールの大部分がプレイヤーの選択に委ねられている。しかも、阿呆さんが指摘するように初期設定の「特徴」ぐらいしかプレイングに関わらず、それも規定とは呼べないほどゆるいことも特徴だ。行動の自由度は少なくとも「移動」と「課題選択」では最大限許されている。

デジタルゲーム、とくにオープンワールドの自由度の分析は以前 The Legend of Zelda: Tears of the Kingdom を例にやったのでそちらも参照されたし。

Zelda: TotK は立体的なフィールドデザインを活かしたフリーロー厶と個性的なクラフトシステムによる解決手段の「自由」が特徴だが、プレイヤーキャラクターの素性や成長、振舞いの幅はかなり厳しく制限されている。

【ティアキン】 ゲームの「自由」に潜む魔物たち 【レビュー】

そのため、Starfield では自分をプレイするにせよ、だれかを演じるにせよ、キャラクターの一貫性=アイデンティティを保つにはゲームシステムの助けを借りなくても駆動する「プレイヤー自身の強いこだわり」が必要になる

もちろん、PC の一貫性が気にならなかったり、もともと「強いこだわり」があるなら問題にならないだろう。しかし、プレイヤーとそのスタイルの幅を考慮すると阿呆さんの指摘はもっともで、とくに Pathfinder: Kingmaker のようにプレイヤーによる選択も規定も多い(つまり「ゲームシステムの連動」が強くある)ゲームに慣れると、Starfield のような「プレイヤー自身の強いこだわり」を要求する RPG が居心地悪く感じるのはよくわかる。

この観点から僕が Starfield の問題だと感じるのはコンパニオンたちのパーソナリティーの狭さだ。

つまり、本作のロマンス可能な相手には好感度が用意されているが、どのコンパニオンも善寄りの行動を好むためそのパーソナリティーの幅がきわめて狭い。だれがどのように遊んでも、マジメにプレイするかぎりだれとでも恋愛できるようにしたのだろう。周回プレイ推奨の作品としてはこの時点で正直アウトだが、僕が気付いたのはこれがロールプレイの幅を狭めるだけでなく、PC の性格的な一貫性も見出しづらくさせていることだ。

Cyberpunk 2077 はいくつかの面で Starfield と似ている。

作品による規定が薄く、プレイヤーに委ねられた選択も多い一方で規定自体はかなり少ない。出自の選択はプロローグに大きな違いをもたらすが、そのあとは追加の会話選択を得られるぐらいなので Starfield とさほどの差はない。作品から許容された行動の自由度も基本的には「移動」と「課題選択」なのでよく似ている。

おもしろいのはコンパニオンの役割のちがいだ。

Cyberpunk 2077 ではジョニーだけが PC につきっきりでその行動や状況に価値判断を示す。彼の思想は容易には共感しづらい過激なものだが、だからこそナイトシティやメガコーポへのプレイヤーの立ち位置を見出しやすくさせている

つまり、ジョニーの極端な言動が「そのとおりだ!」「それは言い過ぎかな」「コイツないわー」といったプレイヤーの幅広い反応を引きだし、ナイトシティで起きる物事へのスタンスを「こだわり」抜きでも自然に決めさせる役割を果たしている。

ジョニーが傍若無人な過激思想の持ち主でも「憎めないヤツ」なのはキャラクターとしての幅と役者自身の好感度によるだろう。キアヌ・リーヴスがあえて演じた大きな意義がここにある。

一方、Starfield ではそういった極端な思想のコンパニオンがいない。こまかい違いはあれど、全員が善寄りの行動を好み、悪寄りの行動を嫌って似たような賛否を示す。そこに面白味がないのはもちろんだが、ジョニーのような過激さや、ほかの優れた RPG 作品(たとえば Pathfinder: Kingmaker)のようなバリエーションで PC のアイデンティティを見出させる役割はない。あくまで旅のお供にすぎない。

コンパニオンの好みはひとそれぞれだ。サラの喧しさに惚れ込むひともいれば、バレットのウィットに富んだ皮肉を好むひともいる。

残念ながらアンドレヤ派の僕はもちろん結婚までしたが、そして D&D 風にいうなら彼女がなぜ秩序かつ悪の造形でなかったかいまでも胸が張り裂けそうだが、それはそれとして「お供」に過ぎないキャラクターデザインが本作を野心的ながらんどうとして体験させる原因のひとつになっている。少なくとも 「なりきり」のための「強いこだわり」がないプレイヤーにとっては。

プレイヤーの想像力の喚起ではなくむしろ積極的な補完を強いるものを傑作と絶賛できるかは正直疑わしい。Starfield の評価には作品そのものに根差した批評がもとめられる。


おわりに


物語とは人類の奇妙な発明だ。

僕たちは物語ることで今ここにいない彼方のひとたちとも四次元的にさえ交感できる。共感し、想像し、解釈し、理解できる。虚構の者とさえわかりあえたという実感に胸を撃たれる。

物語の魅力、あまりに蠱惑的なその魔力は僕たちが社会的動物として隣人の一挙手一投足に意味を見出すことで団結し、この数百万年を生き抜いた先に繁栄をむかえた原初の秘密と根はおなじだろう。物語のアートとしての文芸はまさしくその源の技術的転用であり、それゆえにその快楽をいったん切り離して分析するには反人間的な、いわば哲学的なあたまの使いかたが必要だ。

デジタルゲームの分析はさらに「遊び」の要素が根底にあるぶん、いま最もホットでかつ難解な文芸ジャンルといえる。その複雑怪奇な迷宮で僕が失ったものの重さは計りしれないけども。

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