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『三つ子の魂百まで』・・・この諺は、真理をついているが、余りにも怖すぎる。

 『三つ子の魂百まで』とは、幼児期からの資質というものは、歳を重ねたとしても不変であるということを表す。いくら、幼少期から躾や教育を受けたとしても、大人になってもその思考や癖などが残るということだ。

 その癖が、人に迷惑を掛けるような悪癖だったらどうすべきか。反社会的な偏った考え方であればどうなるのか。『多様化の時代』と雖も、善悪全てを受け入れることはできない。それを是とすれば、平穏無事なる社会が破壊されてしまう。

 新聞社時代の話だが、ある女子高の校長に用があって足を運ぶことがあった。私立の高校だったが、校長が校内を案内すると言って中庭を通る時に、思わぬ光景を目にしたのである。

 丁度昼休みの時間帯であり、あちこちに女子高生が中庭に屯していた。暑さもあってが、スカートをバタバタと上げたり下げたり。更には、スカートを捲り上げて、尻丸出しのような格好をしており、会釈も挨拶もなかった。

 悪いけれども、その女子高の偏差値は決して高いとは言えず、そこで、校長に尋ねたのだった。「私は共学だったけれども、このような光景は日常茶飯事ですか?目の置き場がなく、とても驚きました。」と申し上げた。

 校長曰く、「女の子ばかりの学校は、こんな感じですよ。特に、勉強嫌いの子供たちが集まると、こうなります。当校の校長として恥ずかしい話ですが、どうにも手の施しようがありません。」と。

 そろそろ授業が始まる時間である。3階の廊下突き当たり右手にある教室を案内すると言う校長。筆者は校長の背中を見つつ歩いていたが、途中の右手教室の窓は全開となっており、女子高生の無数の目がこちらに刺さってきた。

 私たちが歩く速度と同じくして、目線が追ってくるような感じであった。まあ、女子高なので、若いスーツ姿の筆者が珍しかったのかも知れないが、正直なところ、異様な空気を感じ、心地良くはなかった。

 これが田舎の学校となれば、生徒たちの態度は全く異なる。正面からすれ違えば、必ず、立ち止まって挨拶をしてくれる。先ほどの廊下の話であるが、田舎の学校では会釈や挨拶をする程度で、目線を突き刺すようなことはない。

 極論ではあると思いつつ・・・『教育』無くして国は栄えることはないと考えている。よって、『三つ子の魂百まで』を何とか善いベクトルへと誘う(いざなう)ためには、『民度高き国民教育』が必須となる。

 柄が悪くて社会的に協調性がなければ、『民度高き国民』として活躍する場は少なくなるのは当然のこと。ただ、子供たちが育つ中で、一番気をつけておけねばならないのは、その周囲の友の存在である。

 『朱に交われば赤くなる』という諺がある通り、善きも悪きも、子供は周囲の友に感化され易く、善の道へも悪の道へも、本人が意図せずとも、どちらかへ転がるか、孤立することになる。

 よって、人口が爆発的に増えた国家が独裁的になるのは、『三つ子の魂百まで』と『朱に交われば赤くなる』に対して、『洗脳教育システム』の徹底により、犯罪防止や暴動による国家転覆防止のための策としている。そこは頷けないとは言えないが、『洗脳教育システム』に対しては認め難い。

 しかし、どのように子育てをし、社会貢献するような人間に育てるかは、決して容易なものではない。父母、両親からの一つ一つの躾も重要であり、ある時は、悪の道へ誘い込む悪友との遮断も必要になってくる。

 最近の教職がサラリーマン化しているがために、ただ、進学のための勉強を教えるに留まっているのが実情である。子供たちを試験の出来不出来でフィルタリングするのではなく、教育者としては、先ずは『道徳心』を植え付けるのが最優先ではないか。

 何事も緩い時代となって、日々起きているのが、公務に従事する人間の悪質な犯罪である。近頃、激的に急増している。それも、犯罪を取り締まるべき警察官や国を守る自衛官の犯罪などが起こるたびに、戦慄さえ走ってしまうのである。

 畢竟、『積善之余慶』なる『道徳教育』の徹底が急務となる。しかしながら、現在社会問題となっているように、多くの国会議員やその他議員たちが、社会悪たる新興宗教に感染しているようでは、その道(『積善之余慶』)は閉ざされてしまうだけの話となる。これまた、情けない話である。

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