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「ストーリー性のない授業なんぞ役立たず!」と、嫌っていた学生時代を振り返る。

 学生時代、理数や英語は強いが、国語や社会に関心がなかった。言い訳にもならないけれども、当時の国語や社会などにストーリー性を見出せなかった自分が居たようだ。

 記憶の箱にひたすら詰め込む学習法が一般的であり、それを点数にして、出来不出来の差別化を図っていた時代であるから仕方ない。各教科の枠以外は、全く評価にも値しないのである。

 文豪の名作にしても、その一部を切り取り、その著書の紹介があり、作者の心を読むなど、筆者にはどうしてもその手法が気に入らなかった。「作者が伝えたかった事を100字以内にまとめて書け!」なんぞ言われても、作者しか正確に分からぬ事である。

 つむじ曲がりの人間には、到底、国語の試験問題は鳥肌ものであった。更に、歴史となれば、日本史と世界史に分けてあり、別々に授業を受けねばならない。地図も何となく薄っぺらの図解集のようだ。

 ところが、最近、大変遅ればせながらであるが、「マンガ」の存在の大きさに驚きの色を隠し切れないのである。幼少期、厳しすぎる家に育ったために、「漫画本」が自宅に一冊も存在しなかった。テレビもNHKオンリーである。

 学校へ通っていても、皆との共通の話題が激減するばかり。よって、自分で「手作り漫画本」を数冊作ったこともあった。少なからずとも、父親や祖父への謀反である。下手な漫画だったが、自分なりの小さな世界を作ることができ、それなりのストーリー性はあった。

 そうそう、国語や社会の授業に馴染めなかったのは、ストーリーのぶつ切りを紹介されているので、いつも消化不良にて、生理的に受け付けなかった。史実の真偽が立証できぬまま、いい加減に描写していたところも多々ある。

 最近、何かきっかけとなることがあれば、さっと書籍(Kindle版)を購入し、一気読みすることがある。仕事柄、そこまで暇ではないので、速読を余儀なくされるけれども、ストーリー性重視で読むと、すこぶる心が弾む。

 これが学生時代に欠落していたものだと、今頃になって気づく、凡人中の凡人である。一読すると、そこに登場してくる歴史上の人物や時代の変遷に心が動き、更に、前後左右斜めに関連性を求めて書籍に目が向いて行く。

 確かに、ストーリー性重視の読書は心の満足に繋がる。更に、関連性を徹底的に追求すると、世界観がどんどん加速度を上げて膨らんでくる。

 今まで、好き嫌いだけで選別していたものが阿呆らしくもあり、過去の授業内容、教育システムが実につまらぬものであった事を再認識した次第。

 国語の先生も国学者でもあるまいし、古典漢文を唱えるほどのスキルは持ってはいない。世界史の先生も海外を飛び回って史実を研究した訳でもない。言わば、机上の空論的なものとして受け止めていた。

 ただ、高校の校長は東大文学部卒で、夏目漱石のような風貌であったので、その方だけは今でも強烈に記憶に刻まれている。可能であれば、当時の国語については、その校長先生から学びたかったと、今でも思っている。当時、個人的にもお世話になった立派な先生であった。

 「学び」は、学ぶ側の心構えが重要であるが、教授する側の質の高さも同様に重要である。

 熱々のコーヒーを飲みながら、今更ながらに、昔の自分の至らなさを痛切に感じてしまった。思いの外、空虚なる長き時を過ごしてきたものである。

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