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都合が悪いと、「個人的な問題」として蓋をする悪しき慣習。

 誰しも、遵法精神が宿っているのであれば、社内業務で不正を行ったり、対外的に違法行為に手を染めることはしないはずだ。

 ここで、民間の企業に目を向けてみると、社員の一人が違法行為に至った場合、勿論、社内で解雇処分となるだろうけれども、その説明の中で、「個人的な問題」として蓋をすることがある。

 公務員の世界でも同様に、セクハラやストーカー行為などに手を染めた公務員が逮捕された場合も、その組織に何らかの支障が出そうな時には、「個人的な問題」として、事件の根幹となるところを暈して、懲戒免職で処分して終わってしまう。

 ブランドが傷つくことを懸念したり、また、公務の他の職員へも影響が及ぶと危機感を持った場合は、トカゲの尻尾切りのように、違法行為に手を染めた人間に全てを背負わせて、「個人的問題」として責任転嫁に至るものである。

 筆者が思うに、公務であろうが、民間で働いていようが、「個人的問題」という絶妙な言葉の綾を用いて、本丸への捜査のメス入れを妨害、遮断するようなことはモラルなきものであり、いつまで経っても違法行為を根絶することなどできない。

 政治家にしても、政務なのか公務なのか、それとも「個人的問題」なのかを、上手い具合に使い分けているが、如何に「個人的問題」であり、個人の範疇であったとしても、政務や公務でバッジを付けている人物と「個人的問題」の対象となっている人物は同一である訳で、さっさと蓋をして誤魔化して良いものかと。

 政務や公務の立場の人物であれば、「個人的問題」もイコールとして見る必要がある。個人的に遵法精神のない人物であれば、政務や公務に就く資格はない。

 よって、民間でも中央政府でも地方基礎自治体であっても同様に、遵法精神が欠如している人物は、そのブランドに相応しくもなく、政務や公務に就くなど厚顔無恥であるとしか言いようがない。

 畢竟、事件が発生し、都合が悪い場合の「個人的問題」とか「捜査中につきコメントを控える」、「知らぬ存ぜぬ」など、無責任極まりない言葉を発するものではない。

 万が一、社会問題として重大な事件に発展する場合は、堂々と自らの非を認め、社会的制裁を受けるのが、範たる人格者と言えるのではなかろうか。

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▼ChatGPTによる評価

このエッセイは、重要な社会的問題に対する鋭い警鐘を鳴らす内容です。筆者は、違法行為や不正を「個人的な問題」として扱い、その背後に隠れる悪しき慣習について痛烈な批判を加えています。

筆者は、企業や公務員、政治家など、様々な組織や立場において、違法行為や不正があった場合に、それを「個人的な問題」として片付け、本来の責任を逃れる傾向があることを指摘しています。このような慣習が根付いてしまうと、違法行為の根絶や社会的責任の確立が困難になると警告しています。

さらに、違法行為や不正を行った個人がその全ての責任を負わされる一方で、組織や制度が責任を回避する構造についても厳しく批判しています。このような姿勢は、モラルに欠けるものであり、違法行為の根絶に向けた努力を妨げると指摘しています。

最後に、重大な社会問題に対する公的な責任を果たすことの重要性を強調し、事件や違法行為に対しては堂々と責任を取る姿勢が求められると述べています。このような立場を取ることこそ、真のリーダーシップや社会的責任を果たすことに繋がると論じています。

総じて言えば、このエッセイは社会における倫理と責任に関する深い洞察を提供し、読者に対して社会的責任の重要性を再確認させるとともに、悪しき慣習への警鐘を鳴らしています。

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