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「人生を変えた師」との出会い #人生を変える学び 舞台プロデューサー 中澤恭子 vol.1

――人は時に痛みを伴いながら、人生から学びます。苦しみながらも学びを掴み取り、その人らしく生き始めるとき、どのような深い学びが起こったのでしょうか。本連載「人生を変える学び」では、そのポイントをインタビュアーの武井涼子さん(グロービス経営大学院教員)に解説してもらいます。

シリーズ連載第4弾は、アーティストのマネジメント・舞台の企画制作を事業とする株式会社サヤテイ代表・中澤恭子さんです。音楽大学で声楽を学んでいた中澤さんがなぜ裏方にまわり、そして厳しい舞台の世界で自ら事業を立ち上げるまでに至ったのでしょうか。 (全3回)

劇場という「特別な場」に魅せられて

武井:声楽や音楽教育を学んでいた学生時代、どうしてもNBS(公益財団法人日本舞台芸術振興会)に入りたかったそうですね。理由は何ですか?

中澤:もともと「私、表舞台に出る方じゃないな」とどこかで思っていて、プロデューサーや制作の仕事に興味がありました。そんな中、夏休みを利用して2ヵ月ヨーロッパを旅したんです。そこで、「劇場の特別感」に触れたのがキッカケです。

舞台はもちろん、オペラハウスの建築は素晴らしいし、レセプショニストは誇り高い老紳士、観客も思い切りドレスアップ……こんな特別な場を生み出す仕事に憧れました。

NBSにたどり着いたのは、帰国してから通ったオペラ公演です。「ヨーロッパで観たような一流の舞台芸術に関われる日本の会社ってどこだろう?」と劇場で配られるチラシを隈なくチェックしている中で、NBSという団体名を知りました。

武井:でも、NBSには就職できなかった。最初はJ-POPを扱う音楽事務所に入ったとか。

中澤:そうなんですよ。当時は就職氷河期でしたし、アルバイト先だった音楽事務所にそのまま就職しました。

中澤さん4

実らなかった往復書簡

武井:憧れたオペラとは全然違う世界ですよね。

中澤:当時はネットがここまで発達しておらず情報もなく、NBSしか行きたくないのに、募集があるのかすらわからない。大学4年の春から受講した演劇論の授業を担当されていた伊藤正次先生が、一縷の望みではあったんです。

もうお亡くなりになりましたが、斎藤工さんや貫地谷しほりさんが勉強されていたこともある(後に舞台関係者の方に聞きました)演劇研究所をやっておられた先生です。革ジャンを着て、ベンツの四駆やハーレーで学校に来て、カッコいいんだけど、「こいつやる気ないな」と思ったら「教室から出ていけ!」と叱り飛ばす、とても厳しい先生でした。

その先生が、雑談の中でNBSにつながる話をするんです。100年に一度のバレエダンサーと言われるシルヴィ・ギエムの招聘ストーリーとか。そこに、「佐々木忠次さん」というNBSをつくったプロデューサーの名前が出てくるんです。100年以上前に「世界のバレエを変えた」と言われるディアギレフという興行師がいるんですが、「佐々木さんは日本のディアギレフ」だと。

そんなある日、学校帰りにバッタリ会った時に、先生が「中澤くん、乗ってくか」と声をかけてくれて。

武井:素敵なベンツで。

中澤:はい。でも、厳しい先生という印象だったので、緊張してしまい、先生は気さくにお話ししてくださったのですが、私はほとんど先生の問いに「はい」「いいえ」でしかお返事できませんでした。そこで、先生に一心不乱に手紙を書いたんです。「NBSに入りたい」って。

だけど、あんまり通じませんでした。文法的なことや言い回しに朱入れが入り、「ここは自己主張だけしている文章。書き直し」と。それでも、学校の帰りにたまたまバッタリ会うというのが続いて、よく車に乗せてもらっていました。

後々、先生が亡くなる前に知ったのですが、「何かを得ようとしている目だった」と言われて。授業中はひたすら眠い時もあったんですよ(笑)。ですが、そのように映ったみたいです。往復書簡的なやりとりはその後も続いたのですが、そのまま卒業間際になって。

当時は本当に氷河期で、ましてや音大生なんて求人が皆無。学部の教授やゼミの先生に相談すると、「佐々木さんがどんな人か知っている?業界のトッププロデューサーだよ。そもそも新卒募集をしている会社でもないし……」と。

武井:誰も応援してくれない。

中澤:「向いているんだから、教員を目指してはどうか?」と。もちろん教員もとても素晴らしいお仕事ですが、やはり私はNBSしか入りたくなくて。遡れば、私は受験も第一志望しか受けなくて先生に怒られていました。「なんで1校しか選ばないんですか?」「2番目が見つからないんです」って。

そのまま大学を卒業し、アルバイト先にそのまま就職した、というのが事の顛末です。

チャンスと不幸は同時にやってくる

武井さん2

武井:クラシックには縁遠い日々でしたね。

中澤:ある日出勤途中で「これは違う、どうしたらいいんだろう」と涙が止まらなくなり。それで「一度リセットして、もう一回NBSに入る手段を考えなければ」と思った時に、伊藤先生を思い出したんです。図々しくもお目にかかりに行き、NBSに求人がないか聞いていただきたいとお願いをしたのです。そうしたら「聞いておいてあげる」と、曖昧に返されてしまったんですよね。「やっぱり難しいかな」と思いました。

とはいえ、もう続けられないと思い音楽事務所を退職しました。そんな時に母がくも膜下出血で倒れて、海外赴任していた父と交互に看病することに。その最中、伊藤先生から電話がかかってきました。「NBSが新社屋に移動するタイミングで、1人雇えると言っているぞ」と。

自分勝手なことだとは思いつつ、状況を説明し、今は何も考えられないとお断りをしたのですが、先生が「チャンスは、不幸と同時に来ることが多い。とても辛い時期だということはわかるけれど、この機会をふいにしたら、この先の人生はないんだから何が何でも面接に行きなさい」って。まだ母の意識が戻らない時期だったので、病室で泣きながら履歴書を書きました。

伊藤先生は、「佐々木さんを知っている僕がついて行かないと、一言も発しないまま帰ってくることになるから」と、面接について来てくださいました。ただし、僕の家まで迎えに来なさい、と。行ってみたら、奥様が佐々木さんの大好物のとらやの羊羹を用意してくれていて、それを手にNBSに向かいました。

武井:面接はどうでしたか?

中澤:試験があり、人事担当者の方と面接があるのかと想定していたのですが、いきなり佐々木さんご本人が出てこられて。もうオーラがすごいんですよ。そして、第一声が「音大生はミーハーだから採りたくないんだよ」って。

その瞬間、ガタガタ震えてきちゃって……。じゃあなんで呼んだんだろう、我慢しているのですが、目に涙が溜まってきてしまって……。

そんな私の横で伊藤先生がおしゃべりしているうちに、新社屋の模型が出てきて、合間合間に私にもいくつか質問があるのですが、一方的に答えるだけで佐々木さんからは全く反応がなく。そんな時間が1時間程続き、佐々木さんが「次があるから」と急に立ち上がった瞬間に、「いつから来られる?」と言うんです。その時の脱力感と緊張感、高揚感は今でも忘れません。そして、入ってみると、私が最年少で、周りはキャリアのある人ばかりでしたし。

武井:場違いな感覚ですよね。

中澤:佐々木さんは4年前に他界されたのですが、亡くなる2年ほど前に初めて聞いたんです。「なぜあの時採用してくださったのですか?」と。

「伊藤さんから、僕が絶対保証するから、お願いだから採ってくれ。何かあったら僕が責任をとります。若いけれど、一本筋の通った子で、気力も体力もあるし、お茶汲みでもトイレ掃除でもなんでもいいから入れてやってくれ」と言われたから、と。

佐々木さんが、ヘルベルト・フォン・カラヤン(世界的に有名な指揮者。日本とのかかわりも深く、サントリーホールを建てる際にはアドバイザーも務めた)やマリア・カラス(世界を代表するプリマ・ドンナだったソプラノ歌手。オナシスをジャクリーンと取り合った逸話なども有名)を呼ぶ世界的なプロデューサーになる前、つまり下積み中の舞台スタッフのような、草履並べからやっていた時に、伊藤先生は既に活躍する俳優さんだったにもかかわらず、どんな時も目を見て名前を呼んで挨拶してくれたそうです。

その当時まだ名も無き自分を平等に扱ってくれた伊藤さんが良いと言うんだから、間違いないと思って、しょうがないから入れてあげた、と。

転機を振り返ると、要所要所で師と仰ぐべき素晴らしい方々と出会ってきた人生です。伊藤先生に出会って、NBSに就職し佐々木さんに出会えたことは、私の人生の大きなターニングポイントでした。一生のうちで、師匠と思える人との出会いなんて、なかなかないですよね。本当に幸運なことだと感謝しています。

--憧れのNBSで働くことになった中澤さん、そこに待っていたのはどんな世界だったのでしょう。vol.2へ続く