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様々なことへの所感

「きゅうくらりん」について

「きゅうくらりん」について知り、聴くようになったのは、遅ればせながらもつい数ヶ月前のことである。それはまたまた流行に遅れをとりながらも聴きはじめた「トウキョウ・シャンディ・ランデヴ」にて花譜そしてその声を元にして製作された音声合成ソフトウェアのソングボイスである可不(これらについて、私は門外漢であるから正確性に疑問が生ずるようなものを記述しているかもしれないが、それについては御容赦願いたい)にある種の興味を覚えたからであり、彼らが関わる音楽を片っ端から聴いてしまいたいという欲動に由来する行動の過程に起きた。
 告白するが、私は「きゅうくらりん」を聴きながら思わず落涙してしまった。はしたないかもしれないが、それを禁じ得なかった。聴いているうちに涙が自然にあふれ、頬を伝った。曲が終了してまた出だしから始まっても、それを停止して他の曲を聴くことが躊躇われた。まるでそれが罪深きことであるように。それほどこの曲は情動を揺さぶる程の力を持っていた。何回聴いても、何回その内容を咀嚼してもやはり私は涙のほとばしりを止めることは出来ない。そして今も。
 専ら私の感動に由来するのはその簡明で抒情的な歌詞にある。就中次の歌詞に私はと胸を衝かれた。

例えば今夜眠って
目覚めたときに起きる理由が
ひとつも見つからない
朝が来たらわたしはどうする?

 前後の躁的な歌い方とは真逆に沈み、無気力で淡白に独白されるこの歌詞はそれ故に強烈な印象をもたらす。彼女の掌は辛うじてカーテンを抜けて布団越しに差す朝日の白い光でぼんやりと見えるだろう。だがその表面は余りにも昏い。そしてその昏さは彼女の全身を磔刑する。
 現代において眠るという所作は一般的に布団に包まるという点で内向的なものであり、夢という現象は自省的な思索の痕跡である。外界が知覚を媒介して精神に干渉し続けると、毒々しい陽光に剝き出しであると肉体は死んでいくように、人間のこころは壊れてしまう。だからこのように身を縮め、感覚を遮断することで自己の保全を図り、そうして人間は数多くの出来事の記憶を整理し、次に目覚めたときへの準備をし終えるのである。
 しかし彼女はそうならない。彼女にとって、一日で初めに行う動作——起きるということ——は当為ではない。少なくともそれが倫理的にせねばならないという「当然の帰結」が生じていない。それにはいかなる理由付けも出来ず、寧ろそれを行わないということが補集合的に道徳的必然性を有してしまっており、それが普通の人間と一線を画すのである。仮令人間が起きたくないと思っても、起きたくないという拒否を示している時点で尋常である。何故なら拒否というのは権利や義務といった蓋然的対象に対して主張されるものであり、それは先に述べた理由付けを必然的に内包するためであり、例えば「会社があるから」、「テストがあるから」というのがそういった人間を普通たらしめるからだ。
 そして彼女はそれが秘める矛盾を自覚している。つまり起きるという動作がそもそも存在せねばならず、それにより実は定言的絶対的な義務もとい命法であるとこころの内で分かっている。自分を主体として扱うか、それとも客体として扱うか? 「朝が来たらわたしはどうする?」というのはその矛盾から生じる根深い葛藤である(だがこの疑問は修辞的であることに留意せねばならない。積極的動機は不在しており、寧ろ彼女は他者という名の陰翳によって縛り付けられているから。それは如何なる理由に先行し、のしかかる点で何よりも神秘的である。成程神の威光は個人のうちでは生じえなかった)。

ああ 取り繕っていたいな
ちゃんと笑えなきゃね 大した取り柄も無いから

 この台詞から単なる自己嫌悪だと断定するのは早計である。彼女は一方でこうとも語っている。

ああ 取り繕っていたいな
ちゃんと笑えなきゃね 大切が壊れちゃうから

ああ 幸せになっちまうよ
ああ 失うのがつらいな
全部ムダになったら 愛した罰を受けるから

 他人への愛というのは自己愛無くして発生することはない。人間と言うのは社会的動物であり、巨視的に観察すれば、私達が集団的に行動しているのが分かるし、実際その点で私達は社会(組織)に属していることで、その世論もとい総意に基づいて、有意識的のみならず無意識的にも生活を左右されてしまっている。しかし先にも述べたように人間観の近代的刷新により顕著となった自我の台頭はそれ以前に集団ではなく個人としての「エゴ」という概念を人間に植え付けた。いや気付かせたと言った方が正しいかもしれない。今まである場所に存在していながら、避けられていたもの。それは今まで大小問わず集まりを重視していた様々な愛の形——フィリア、エロス、ストルゲー、そしてアガペー——を複雑にそして細分化し、なるべく一つの対象への尊重を重視した愛を普及することに繋がる。そしてこのことが自己愛の分化を促すのである。
 墨子が説いた兼愛、イエスが説いた隣人愛の目的が何であれ、それらは他人へ愛情を注ぐという行為の称揚に他ならず、また自己愛の転化を根本理念とする点で共通している。だがその愛は単なる自己犠牲に徹しており、それはある意味種そのものについての存続希求が見え隠れしていた。それは正しく頭ごなしな集団への追従であった。
 一方で近代の恋愛はそれが自己保身に基づくものであることに注意せねばならない。それは双方向への自他の分離による。そしてそれは自我または自己意識によって擁立される。だがそれ以前に「隣人の顔」が存在する。
 レヴィナスはこう述べる。「隣人は、私が彼(彼女)を設定する以前に、私を召喚する。これは知の一様態ではなく、憑依の様態であり、認識とはまったく別の、人間的なるものの戦慄である。(中略)私と隣人の間に意識が介在しに来るのではない。(中略)意識自体が憑依の変容なのである」「主体性である同の中の他は、他によって不安にさせられる同の不安である」つまり他者に先行され、憑依されることにより、私達は自己意識を獲得し、またそれにより死の香り、不安を覚え、主体性が強調される。私達はその過程にて密かに他者へ恐怖を抱くことになり、それは知覚される外界への備えを決意し、それにより自己意識を大きくさせる。
 肥大した自己意識は自身を飲み込もうとし、それは常に危殆に瀕した状態を維持し続ける。精神のダムととらえても良い。このダムが決壊したとき、その者は廃人となる。廃人とならなくとも、当たり前のように感じ取ってきた人間としての「私」が遊離しているのではないかと思うようになる。それは大きくなり過ぎた自己を区画処理するための自他の分離を意味している。離人症というのはその徴候である。
 普通は上記のことにならないように、他者との調和を中途で思い至る。つまり自己愛を他者に流用しようという企図であるが、これは先ほど言ったような頭ごなしの集団への追従なんかではなく、他者を丸め込もうという支配であり自己と重ね合わせようとする融即である。その対象は極めて限定的で、大抵の場合単体である(成程、ウーマナイザーの権化だったドン・ファンも決してポリアモリーには至らなかった。反動である必要が無かったからだ。フリーセックスもフリーラブも全ては既存体制への反抗のあらわれであり、原始的でありすぎたために近現代でしか存在しえなかった)。
 つまり彼女の愛は対象への徹底的な献身というより、自己と同一することの強要に重きが置かれている。それはある種の暴力としてみなすことができる。だがこのことを非難するという意図は私には全くない。寧ろ私の文章には彼女の気づきへの感嘆が籠っている。

幸せな明日を願うけど 底なしの孤独をどうしよう

 孤独とは見えない他者の責め苦であり、こころの中で頻りに思い浮かばれる顔への戦慄である。あらゆる人間に音のう死の予感が、精神の中で蟠る反響音である。もともとの自己愛はそれを緩和させるために存在していたが、その愛が自己保身のために他者へ向けられ、注がれ続けるようになると、勿論自己の領域を拡大する行為なので今まで感じていた孤独を忘れられるようになるために、対象の喪失によって生じる深刻な事態——愛するものの一時的不在が見過ごされてしまう。そして素っ気ない否定は愛情に彷徨させ、それは主体の精神的危機を促す。対象の喪失自体大したものではないが、その後に予想される自己愛の帰着は埋め合わせをするために自己意識の急激な肥大をもたらす。
 彼女が恐れているのはそのことであり、愛するという行為に対して実存的な「不安」を抱いており、またそれを常に内孕する外界との接触を躊躇っている。故に彼女は起きない。

 この曲が私の好きなゲーム「ドキドキ文芸部!」のサヨリをモチーフにしているという話を友人から聞いた。最後の「ちゅうぶらりん」とは首吊りの隠喩なのではないかとも彼は話していた。確かにそうかもしれない、自殺が罪深いのはそれが現実世界の総てを解決するからであり、味気ないからだ。
 しかしそれをするには余りにも純情で思慮深い。


ゲームラボについて

 先日最寄りの書店をいつものようにうろついていた私はゲームやアニメ関係の雑誌が置かれている棚を通り過ぎる際、ふとそこにゲームラボが置かれていることに気づいた。
ゲームラボ。いつぶりだろうか、これを見かけたのは? その時私の胸には名状しがたい郷愁が去来していた。
 小学生の時分、もう高学年になっていたかどうか覚えていないがもう十年以上は経っているだろう、コロコロコミックを買いに少し遠くにあった文教堂に雨で錆びた自転車を全力で漕いでいき、息を切らしながら新刊コーナーにあるコロコロを取ろうとしたとき、それはあった。
 その雑誌は隣に置いてあったギネスブックみたいな大きさのアニメ雑誌のせいでこじんまりとしていた。文庫本より少し大きかった。だから存在感はそこまでなくて、その証拠に読んだ時につく若干のヨレすら見当たらなかった。
 しかし私はその雑誌に興味が湧いていた。その理由ははっきりしていないが、当時の私は同級生の中でも抜きんでてゲームソフトを持っている所謂ゲーム小僧で、酒缶に強いあこがれを感じていた(その割にすぐにゲーム熱は冷めてしまったが)ことと、その割にプロアクションリプレイでゲームを改造することにハマっていて、ゲームラボの見出しにプロアクとゲーフリの改造コード記載といった旨が書かれていたことが強く関係しているのではないかと思う。
 私は恐る恐るゲームラボを手に取った。そしてページを捲るとなんだか良く分からない、しかしアックスに収録されているものよりはだいぶマシな、つまり面白い漫画があった。一番驚いたのは「コロコロイチバン!」で連載していたピョコタンがこちらでも漫画を描いていたことだった。昔は漫画家が複数の出版社を掛け持ちして描いているなんて想像もつかなかったから、この発見は一層新鮮だった。彼は南海キャンディーズのしずちゃんの絵が妙にうまかった。
 彼の漫画を読み終え、更に捲るとレトロゲーの裏技特集がやっていて、そこでも私は目を瞠るようにしてそれを読み始めた。こういう裏技や小ネタというものに興味をひかれるのは私だけではあるまい。「たまごっち」で育てていたたまごっちが死神に襲われているときに、前に亡くなった子が守護霊として助けてくれるといった情報のように、そういった小話は何か魅惑的なものがある。仮令自分がやったことのないゲームだろうと、例えば「アトランティスの謎」、「たけしの挑戦状」そして「えりかとさとるの夢冒険」などのゲームの特集が組まれていると何となく読みたくなってしまうものだ。しかし残念なことにこのときは何が取り上げられていたのか失念してしまった。
 ゲームラボを立ち読みしながら私は、
「こんな面白い雑誌があったなんて」などと感慨深い気持ちになりながら、ふんふんと鼻歌交じりにページを捲り、仰天した。無意識に声も出てしまっていたのかもしれないというほど驚いた。というのもそのページには思いっきり男女のまぐわいが描かれた漫画について、こう一番亢奮するような箇所を切り抜いて宣伝していたからであった。更にその次の内容もエッチなゲームを紹介していて、私は無性に怖くなって辺りを見回した。
 小学三年生の頃には親が持っていた徳弘正也の「狂四郎2030」を読了していて性の分野についてはませていたから、自分にはそういったものに耐性があるのだろうとこころなしに自負していたのだが、この時はついたじたじになったものだ。不意打ちに近いものだった。
 絵の全体にはモザイクがついていたが、以上から何やっているのかは容易に予想が点いた。不意に勃起した。
「うわあ、すごいなあ」そう呟いた私の記憶には今もエヴァの同人誌、シンジとカヲルのゲイセックスが鮮明に残っている。オリジナルの絵に肉薄するくらい絵が上手かったから、それを見てから数年、本当に貞本が描いたのだと思っていた。
 それからしばらくゲームラボを度々書店で見つけてはこう買わずに立ち読みしていたが、高校に上がってからあまり見かける機会もなくなってしまった。今回これを再び目することができたのは僥倖だった。最後に読んでからもう数年経っていた。
 久しぶりにページを捲る。最初にピョコタンの漫画が出てきて、何やら漫画家をやめる云々の話をしている。そういや彼はポーカーが上手かったから、そっちで稼ぐのだろうか、しかしそのまま漫画続けてほしいとも思ったが、それは杞憂に終わった。次にゾルゲ市蔵の漫画が目に入った。AIに描かせたような絵でなんだか逆に新鮮味を感じた。インターネットにおける彼の人間像は余り芳しいものではなかったが、それにも関わらず私はある種の好意を持っていた。そしてその好意はやはり変わらなかった。
 この雑誌との邂逅で私を射止めたエロのコーナーを探そうとした。だが結局見つからなかった。何となく予想はしていた。現代の流れはもうエロに寛容ではない。コンビニで快楽天などが並ばなくなってしまったり、ペニスの隠し方が露骨になったりなどエロは有害であるという意識がメジャーになってきて、最終的には普通に生きていたらそんなの知らないまま死んでしまうのではと思えるくらい排斥されている。エロ=アングラ=有害という共通認識が私達の社会通念になってしまった昨今、ゲームラボはもう取り上げないだろう。
 もしかしたら私の思い違いで、エロはまだ生きているのかもしれないが、いずれにせよ注意して探した私が見過ごすならば、それは最早寛容とは言えない。私は何かぽっかりと空けてしまったこころがゲームラボとの距離も開けてしまって、うら寂しいものを感じ取った。


村上春樹について

 先日ふと友人と村上春樹について話すことがあった。内容はいたってシンプルで「村上春樹のどこが好きなのか」についてだ。
 言っておくが、私は村上春樹の作品を全部読んではいない。寧ろ主要作品はてんで読んでいなく、「ダンス・ダンス・ダンス」も「ノルウェイの森」も「国境の南、太陽の西」も「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も「ねじまき鳥クロニクル」も「海辺のカフカ」も「1Q84」も「騎士団長殺し」も最近出た「街と、その不確かな壁」も全く読んでいない。鼠三部作と短編集と「炎天雨天」のようなエッセイとあと今は「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を夢中になって読んでいる程度だ。そしていくつかはいつか読みたいと思っているが、大体はこれから先も読まないだろうと思っている。
 いざ列挙してみると全く読んでいないなと痛感するし、そのことについてどこか後ろめたさのようなものも感じる。というのも自分は根っからの完璧主義者で、こういう虫食いを見てしまうといてもたってもいられなくなるからだ。
 それでも自分には村上春樹の良さを語る資格があると思っている。私は仮令ハルキストではないだろうが、村上主義者であるとは思っている。それはやはり自分の読書という営為の内にて村上作品が深く関与しているなと思うからであり、自分の思い描く理想の作品について分析をする度にやはり彼の作品について考えざるを得ないからである。
 友人にこう聞かれたとき、どうして、どこが好きか上手く答えられなかった。少し悔しかった。だからここに記しておこうと思う。
 思えば私が村上春樹を知ったのは高校一年の夏の終りだった。授業で「鏡」という掌編を読み、その作品のどこかに親しみを感じた私は帰りしなに札幌駅付近にある紀伊國屋書店に立ち寄り、授業で読んだ物語が収録された「カンガルー日和」を手に取って、アピアに以前あったタリーズで吝嗇臭くアイスコーヒー一杯だけ買ってそれをちびちびと飲みながら、それを読み始めた。
 ジョルジュ・スーラのような佐々木マキの抽象的なしかし童話的なイラストと映画のような細長さの文章は仄暗い店内にマッチしていて、私は様々な作品に魅入られた。表題作は暖かく、「タクシーに乗った吸血鬼」は痛快だ。「かいつぶり」は夢の中を揺蕩うような気持ちになって、不思議と腰が軽くなった。そして最後の「図書館奇譚」は昔読んだカフカの小説のような、不穏で理不尽でそれでいて鋭くない、真綿で首を絞められるという言葉が相応しいそういった鈍痛があった。やけに幻想的で非現実な作品を味わったときによく経験する、手が熱くなって、口の中が狭くなる感覚が家に帰るみちみちにした。シャワーを浴びた後、ふとこの短編集はどういう意味を持ち合わせていたのかと思って調べてみたが、分からずじまいだった。だが寝て起きると、あれは明確な意義を持ち合わせないが、やはり漂っていることを悟った。
 中学三年生になって、ライトノベルが自分の国語力を下げているに違いないと思い立ち、断軽したときにカフカの「変身」と「断食芸人」を読んだ。岩波文庫のものだ。紋切り型の考えでカフカを読めば頭が良くなると思ったからだった。
 いざ読んでみて、これらが一筋縄にいかない作品であると思い知った。特に「断食芸人」についてはその表層に漂う空気だけを摑むことしかできず、掌の皺に浮かぶその異様な靄が気持ち悪くてその後すぐインターネットで考察を検索してその内容を無理やり「理解」した。
 しかし「カンガルー日和」は違った。一見似た奇怪な雰囲気でも、幼稚な私からしたら全くいやらしくなくて、快いものだった。そして爾来、頭の中ではこの短編集こそが私の求める至高の芸術なのではないかと考えるようになった。
 その後「パン屋再襲撃」や「TVピープル」を貪るように読んだ。難しい小説は読めないし、読みたくないから、本に触れる機会は全くない後悔に満ちた高校三年間だったが、それでも村上春樹の小説はページ数を気にすることなく読めて好きだった。
 大学進学で神奈川に引越したばかりに、糸井重里との共著である「夢で会いましょう」を有隣堂かどっかで買って夜、元町・中華街で読んだ。角煮と皮蛋が来る間、一、二頁で終わる超掌編を読んでいた。自分はこの番組の名を冠した、あるいはもじったタイトルによく惹かれる。とは言ってもほんの数作品だが、例えば山野一の「夢の島で逢いましょう」は後期とは様子の異なるグロテスクを持った初期作品集だが、私はそれが青林堂の出版では最後の長編にあたる「どぶさらい劇場」と共に好きで、「アホウドリ」のような虚実の入り交じった作風がお気に入りだった。そもそも元となった、"I'll See You in My Dreams"が素晴らしい。普通にグウで、グレイトで、エクセレントで、マグニフィセントだ。原曲に漂う狂乱の20年代の予感が好きだし、またDjango Reinhardtの方もこれまたなつかしく聴こえる。
 糸井重里の「こーゆー」や「ゆーふー」や「とゆー」とゆー言葉遣いも良いし、村上春樹の「カンガルー日和」とはまた違う雰囲気が醸し出されていて、春宵の暖かさが感じられた。また「パン屋再襲撃」の前日譚である話、「パン」も面白くて読み終えた後はシックで朗らかな気持ちになった。この経験が私と友人の共同プロジェクトである「コラージュ・ど・ジャパン(焼き立て)」設立の一因になっていると思うと味わい深い。
 それから半年後、茹だるような暑さの夏に横浜に足を運んで、ココ壱のカレーを食べた際に「1973年のピンボール」を読んだ。鼠三部作で最後に読んだ作品だが、これが一番鮮烈で、この時食べたカレーが3辛であったことが呼び起されるくらい今でも周りの風景が心象に浮かぶ。双子の女の子と「純粋理性批判」——あの時憲法学の学習に勤しんでいた私はせめてもの参考にと「永遠平和のために」を読んでいたが、全く分からなくて困惑していた。同時期に読んだトマス・ピンチョンの「スローラーナー」も何が何だか分からず、四周してやっと理解したものだ。
ピンボールの唸り。久しぶりに頁を捲ったら目についた。確か無数にあるピンボールの台は主人公を辟易させたんだったか。話の精細ではなく感触だけが残っているから、もう一度読まなければ正解を答えることは出来ない。しかしこの「ピンボールの唸り」という言葉はじっと心奥に蟠結している。
 ある友人は村上春樹についてこう話していた。登場人物の仕草を真似すると、その心情がありありと思い浮かばれる。とても正確で緻密で。その考えは肯綮に中っていると思う。だが私が考える一番の点は、自分が好きな村上春樹の作品は個人的な空間、それも作品とはまるで関係のない空間にゆっくりと腰を下ろせるということにある。つまり作品と読者の空間は位相の関係にあり、私にとって「カンガルー日和」とタリーズ、「夢で会いましょう」と元町・中華街、「1973年のピンボール」と横浜のココ壱が結びつくといったことが生じることである。特別な節目に起こることではない。極めて平々凡々な日常の隙間にて何でもないように刻まれる。それは時と場所を変えて生活しているある日にふと思い返されて、しみじみとするものである。

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