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第三話 ロリィタとルーベンス

 昨日に比べて風は落ち着いている。静かな夜だった。濃い闇に浮かび上がる鉄門扉は錠が外され、そこを踏み越えると同時に玄関の扉が開かれる。その隙間から漏れ出た光が僕を歓迎するかのように広がり、金髪の姫君が現れる。

「いらっしゃい、待ってたよ」

 出迎えたヒマリさんの姿を見て、僕はその場に立ち止まってしまった。

「どうしたの?」訊ねてから、ああ、とヒマリさんはくすくす笑う。
「もしかして、これ?」

 くるぶしまである赤いドレスの裾をさらりと持ち上げてみせる。黄金の巻き毛を飾るのは揃いの赤い生地でできた……あれはなんというのだろう、レースとフリルの布だ。両側についた紐を顎の下で結んでいる。揺るやかなドレープ状のブラウスの袖口にはたっぷりとしたレース……赤いドレスの裾にもレースが何層にも重なって揺れている。

「ご、ゴスロリですか」どもりながら訊ねると、ヒマリさんは微妙な表情になった。
「うーん。たぶん、あなたが思っているゴスロリとは意味が違うんじゃないかな」

 よく呑み込めない僕を招き入れ、ヒマリさんは扉を閉めた。

「こっちに来て。見せてあげる」

 そう言うと、ヒマリさんは颯爽と玄関ホールを歩きだした。廊下を左に出て、真っ直ぐ……居間の扉を通り過ぎて階段を上がる。階段は緩やかな螺旋状になっていて、赤い絨毯が敷かれていた。その上を優雅に歩くヒマリさんの後ろ姿は気品に満ちあふれていて、ドレスの裾が綺麗に翻って――『今いる場所や空気さえも』――昨日の言葉が甦る。彼女はこの階段の景色をも美しい城の内部に変えているのだ。

 ヒマリさんは二階へ上がって右手の扉に手をかけ、戸惑う僕を手招いた。「ここを見せるのはあなたが初めてよ」と、少しもったいぶって扉を開ける。

 部屋に一歩踏み入った途端、僕は圧倒されて声も出なかった。まず真正面に見えるのは大きな真白のドレッサー。広い三面鏡と、その下にあるたくさんの小さな引き出したち。そしてその隣に置かれた背の高い全身鏡が部屋の主人のように威厳を放っている。

 だけど何より僕を驚かせたのは部屋をぐるりと取り囲む膨大な量の洋服たちだった。ドレス、ブラウス、スカート、色とりどりの鞄や靴……それらがきっちりカバーをかけられ陳列しているのだ。

「ちょっとしたブティックみたいでしょう?」ヒマリさんの誇らしげな声。「右側が夏服より、左側が冬服よりかな。でも、両方着回せる優秀なお洋服もあるの」

 ここはいわゆる衣装部屋なのだ。僕はこの館を勝手に城に見立てていたが、これほどの部屋はどんなお姫さまだってきっと持っていないと思う。

「すごい……ほんとうに、すごいですね」

 掠れた声で呆然と呟く僕に、ヒマリさんは気をよくしたらしい。左側、冬服の列の奥へ僕を誘う。「これがゴスロリ」と引き出したのは全身黒っぽいドレスだ。光沢のある絨毯のような生地にサメの歯のようなぎざぎざのレースが縫い付けられている。

「正式にはゴシックロリィタね。ここに十字架の刺繍があるでしょう」と白い襟元を見せる。黒々と十字架のマークが光っている。「よく合わせるのは髑髏や蜘蛛のモチーフだったり、鞄も棺桶や蝙蝠の形を選んだりするの。そういうちょっと退廃的なイメージのお洋服をゴシックロリィタと呼ぶの」

「じゃあ、今着ているものは違うんですね」
「そうね」ヒマリさんがにっこりと笑った。「これはロリィタ。中でも、クラシカルロリィタね。ロリィタの中でもよりヨーロピアンなイメージで作られているから見分けるのはたやすいと思うよ」

「じゃあ、これは」と、僕はゴスロリの後ろに並んだ薄い水色のドレスを指した。「これは甘ロリね」ヒマリさんはそれも取り出して見せてくれた。水色の生地の上に薄いピンクのレースが何枚も覆い被さっている。ふわふわと、まるで妖精の衣装みたいに、風もないのに揺れている。

「リボンとかキャンディとかペガサスとか、『夢かわいい』ものをこれでもかってくらい詰め込んだのが甘ロリ」
「ゴシックロリィタ、クラシカルロリィタ、甘ロリ……」

 小さく反芻していると、「呑み込みが早いのね、才能があるのかも」と感心されてしまった。一体何の才能だろう。 

 ヒマリさんはゴスロリの中の一つを取り出して僕にあてがった。

「着てみない?」
「えっ」

 思わず二、三歩後ずさる。

「ど、どういうことですか」
「そのままの意味よ」

 ヒマリさんがさらに衣服を僕におしつける。その微笑の奥に光る眼つきは本気だ。僕は夢中で首を横に振った。

「そんな、女装なんて、僕には」
「女装じゃないよ」

 言いながら、ヒマリさんは衣服を下げた。「でも、無理強いはしたくないかな。その時が来たら、きっとあなたの方から言ってくれるもの」

 僕の方から? そんなことあり得ない。

 とんでもない提案をされて驚かされたけど、そのあと一緒に飲んだ紅茶はおいしかったし、居間のレコードで昨日とは違う音楽を堪能した。お城の舞踏会で男女が踊っていそうなワルツだ。少し聴いていると僕でも知っている有名なフレーズがあった。

「チャイコフスキー、好きなのよね」

 ヒマリさんが教えてくれた。音楽室の壁にずらりと貼られている有名な音楽家たちの中にそんな名前があった気がする。意識して見たことはないけれど、今度探してみようかな。

「賢嗣くんは? 何か、好きなものはある?」

 唐突に訊かれて、僕は手の中のカップに視線を落とした。揺れる赤茶の水面に冴えない表情が写っている。

「すみません、特に……。あるとしたら、本くらいで」
「本? どんなのを読むの?」

 ぐっと押し黙ってしまう。僕の好む冒険譚はいつも誰かに笑われる。中学生にもなってまだそんなものを読んでいるのかと馬鹿にされる。母にも、兄にも……慎二にも呆れられている。

「わかった、当ててみる」ヒマリさんが細い人差し指の先を顎に当てて考え込む。
「そうねえ……賢嗣くんは……」
「いいです、当てなくたって。あの、そんな大したものじゃないし」
「大したことない本なんかないよ。本ってね、たくさんの人の手で世に出ているの。そこには必ず書き手がいて、精神を削り時間をかけ、心を込めて一言一句書き出しているんだから」

 さらりと紡がれた言葉に、僕は頬を打たれた気がした。僕はなんて――なんて失礼なことを考えていたのだろう。

「剣とか魔法が活躍する冒険譚が好きです」

 気がつけば僕はそう答えていた。

「最近だと図書室で見つけた『魔法使いと七つの鍵』がとてもおもしろくて……」
「あ、それわたしも好きよ!」ヒマリさんが身を乗りだした。
「何巻まで読んだの?」
「今は三巻です。主人公が溶岩のドラゴンを封じたところで……」
「ああ、あそこ! 覚えてるよ、すっごくハラハラしたもの」

 ヒマリさんが懐かしそうに目を細める。

「周りのもの全部溶かしちゃうドラゴンなんて、どうやってやっつけるんだろうって思ってたら、まさか異空間に封じ込めちゃうだなんてね。しかも主人公の水筒によ! 手強かった敵を次から使役できちゃうなんて、本当に熱い展開よね」

 僕の胸はどきどきと高鳴っていた。誰かとこんな話ができるなんて思ってもみかった。しかもこんな大人の女性と! 信じられない。

「ヒマリさんも、こういう小説、好きなんですか」
「もちろん」嬉しそうな笑みを浮かべてうなずく。「わたしもそういうの書いてるから」

 なんだって。

 呆然とする僕にヒマリさんは照れたように教えてくれた。ヒマリさんは、物語を書いて生計を立てている、小説家だったのだ。

「この家ね、たくさん本、あるから」

 ヒマリさんが居間の棚の戸を開けて見せてくれる。レコードがぎっしり入った段の隣には上から下まで様々な厚さの書籍が詰められていた。

「といっても、冒険小説はここにはないかな。そういうのは上にしまってあるの。ここにあるのは主に芸術関係」

 言いながら、手近にあるものをいくつか取り出してくれた。『世界の神々』『象徴と抽象』『バロック時代の聖人たち』……なんだか難しそうだ。だけど、その中の一冊に強烈に目が吸い寄せられていった。

「興味があったら、見てみてもいいよ」

 ヒマリさんの言葉に押されるようにして僕は手を伸ばしていた。『幻想絵画集』――神々しい光を放つ女性が描かれた色鮮やかな表紙だった。女性の周りには天使がいて、彼女を持ち上げて飛ぼうとしているように見える。

「それね、わたしも好き」ヒマリさんが表紙を指す。「ルーベンスの『聖母被昇天』ね。すごく有名なものよ。ほら、フランダースの犬にも出てくる」

 そう言われてもぴんと来なかった。物語は知っているけれどきちんと読んだことも見たこともないからだ。

 時計が二時を指すまで残り二十分、その間に僕は居間のソファで『幻想絵画集』を眺めていた。参考書くらいの厚みの中に様々な画家の絵が入っていて、簡単な解説もついている。僕はその中でも、おそらくルーベンスの絵が一番気に入っていた。どれを見ても美しいと感じる。学校の美術の時間は退屈で好きではなかったし、教科書の写真を見て心を動かされるなんてことは一度もなかった。だけど今、僕は彼の絵に心を奪われている。畏怖すらも感じているのだ。

「好きなもの、特にないなんて、そんなことはなかったね」

 横から、ヒマリさんが囁いた。

「賢嗣くんはきっと絵が好きなんじゃないかな。絵に限らず、彫刻でもなんでも、芸術が」

 そうなんだろうか。僕に芸術を愛する心があるなんて考えもしなかった。

 時計が二時を告げ、僕は本を閉じた。

「これ、ありがとうございました」
「いいよ、持って帰っても」

 戸惑う僕に、ヒマリさんが本を差し出す。
 だけど、僕はぐいと本を押し返した。

「ありがとうございます。でも、いいんです。この本は、きっとここで――この館で見るから素敵なんだと思います」

 ヒマリさんは一瞬、目をぱちぱちと瞬かせて、すぐに優しく微笑んでくれた。

「じゃあ、また読みにきてくれなくちゃね」

 赤いロリィタのヒマリさんと共に居間を出る。廊下の壁に描かれた蔓薔薇模様も、ところどころに飾られたアンティークな調度品も――きっと僕は明日も来るのに、何もかもが名残惜しかった。


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