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【通史】平安時代〈14〉摂関期の事件(1)刀伊の入寇

藤原道長頼通の親子による摂関政治の全盛期というと、どうしても貴族社会の出来事にばかり注目が集まりますが、一方でこの時代は武士の活躍も見られます。そこで今回は、1019年に起きた「刀伊の入寇」という事件について見ていきます。

突如、九州を襲った危機

1019年「刀伊」と呼ばれる蛮族約3,000人が対馬壱岐に突如襲来し島民を虐殺、さらに南下して筑前国(現在の福岡県)に入寇してきました。「入寇」とは「外国から攻めこんでくること」です。また、「刀伊」とは夷狄(野蛮人の意)を意味する「되」(トゥエ)という朝鮮語に漢字をあてたものですが、その正体は中国東北部や沿海州に住んでいた女真族(満州族)の一派とみられています。

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対馬壱岐に来襲した刀伊は、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返しました。合わせて約400人が惨殺され、また約1,300人もの人々が拉致され、これより、対馬・壱岐にはほとんど人がいなくなったといわれています。

刀伊の残虐行為は留まるところを知らず、ついに九州本土に上陸してきます。この刀伊の進撃に対してひるむことなく撃退戦を繰り広げたのが、当時の大宰府の実質的な最高責任者であった太宰権師藤原隆家でした。

太宰権師・藤原隆家

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藤原隆家は藤原氏全盛期の最頂点に立った道長の兄・道隆の四男として生まれた人物です、つまり、道長から見たらにあたります。当時関白であった道隆を父に持って生まれたわけですから、華々しい出世街道が約束されていたはずでした。しかし、995年、その道隆が亡くなると、道隆の子供たちの人生は一気に暗転します。

◯政界からの失脚のきっかけは、996年、隆家と隆家の兄の伊周の従者が、花山法皇に矢を射かけるという失態を犯したことでした。この頃、伊周と争って軋轢が表面化していた道長は、この事件を伊周を排斥する絶好の機会と捉え、追い落としに利用しました。その結果、伊周大宰府(福岡県)に、隆家出雲国(島根県)に左遷されてしまいました。この事件を「長徳の変」と言います。

◯翌997年に二人とも恩赦によって京都に召還されて政務に復帰しましたが、道長により朝廷内での出世の道は抑えられてしまいます。1010年、伊周は失意のうちに亡くなり、一方の隆家は1012年頃から眼病を患います。すると、九州に宋出身の名医がいるという噂を聞きつけ、自ら願い出て大宰府長官の代官である大宰権帥となりました。この隆家が九州に滞在している時に、刀伊の入寇が起こったのです。

刀伊襲撃の報が朝廷に届く

◯4月7日、刀伊が九州に上陸すると、隆家は京都で可愛がってもらっていた公卿・藤原実資に刀伊の襲撃を知らせる手紙を送ります。実資が手紙を受け取ったのは4月17日ですから、10日ほど日にちを要したことになりますが、この手紙によって朝廷に刀伊の来襲と被害の様子が伝わります。
*余談ですが、眼病を患った隆家に治療のために九州に行くことを勧めたのも実資でした。なお、実資(小野宮右大臣実資)が書き残した日記『小右記』がこの刀伊の入寇について記録しています。

◯刀伊襲撃の報を受けた朝廷は、その翌日に会議を開き、対応を話し合います。九州北部では以前から朝鮮半島の海賊に悩まされてきましたが、これまではあくまで盗賊的な行為でした。しかし、今回の場合は、殺人や放火という残虐な行為が伴う略奪です。事の重大さを深刻に受け止めた朝廷は、刀伊の撃退に活躍した功労者に勲功を与えることを決定します。

九州に上陸した刀伊を撃退した隆家

◯刀伊が九州に上陸すると、各地で防衛戦が繰り広げられます。鬼気迫る状況の中、隆家は太宰府の責任者として九州の豪族や武士を緊急招集し、自らも武器を持って出撃し、最前線で陣頭指揮をとります。そして4月13日、およそ1週間に及ぶ死闘を経て、ついに刀伊を九州から撤退させることに成功し、なんとか国難を乗り切ることができました。

勲功に対する朝廷の否定的反応と実資の対応

◯朝廷は、刀伊の撃退に活躍した功労者に勲功を与えることを決定していました。隆家は、部下らに対する恩賞を乞うべく、大宰府から勲功者の報告を上申します。しかし、これを受けた朝廷では「そもそも勲功を与える必要があるかどうか」という点で意見が割れます。

◯「会議の決定は4月18日なのだから、それ以前のことは独断で行った私闘であり、勲功を与える必要はない」という意見が多数派を占めたのです。歌人として有名な藤原公任(大納言)、三蹟の一人として有名な藤原行成(中納言)などが主張しました。

◯たしかに、4月13日に刀伊を撃退したので、刀伊撃退の功労者に勲功を与えると決定し、追討の勅符(国家の重要事件に際して天皇の勅を直接に国司に下す文書)を発した4月18日の時点では、すでに戦いは終わっていたことになります。しかし、それは結果論です。現在のように新幹線や飛行機があるわけではないので、報せが遅れるのは仕方ありません。

◯これは、隆家が道長の政敵であった伊周の弟であったことから、貴族たちが道長に媚び諂ったということもありますが、当時は、地方の武士たちが力を伸ばしてきている現状があり、これに危機感を抱いていた朝廷としては、勅符を受け取る前に独自の判断で軍事行動を起こしたことを許容してはならないと考えたことも理由の一つです。自分たちの面子を守ろうとしたわけです。

◯これに対して実資が「待った」をかけます。実資は公任・行成らの主張にも一理があることを認めつつも、「1,000人余りも誘拐され、各島人が数百人も殺された今回の事件は、勅符が到達するのを待っていられる状況ではなかった」「直ちに軍を動かしてこれを撃退した勲功ある者たちに恩賞を与えなければ、二度と戦う者が現れなくなる」と意見します。

◯最終的には公任行成も翻意して実資の意見を支持し、隆家をはじめとした功労者たちに褒賞を与えることが決議されます。また、当時出家して政治の一線から退いていた道長も、実資の意見を認めました。実資はこの2年後の1021年に右大臣に昇進していますが、もし、このとき実資の意見が認められず道長からも睨まれてしまっていたら、右大臣への昇進もなかったかもしれません。しかし、周囲の意見に同調することなく、自らが信じる道理に従って意見した実資の対応は賞賛に値します。

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