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【通史】平安時代〈1〉桓武天皇の治世(1)

◯平安時代は平安京に遷都された794年からですが、これを行ったのが桓武天皇(第50代、在位:781~806年)です。桓武天皇は二つの大きな事業を進めました。一つは「造作」すなわち平城京に代わる新都造営です。もう一つは「軍事」。これは蝦夷征服です。二つ合わせて「造作・軍事」と呼ばれます。

①造作(新都造営)

◯まず、「造作」について説明します。なぜ桓武天皇が平城京に代わる新しい都を建設して政治の拠点を移そうとしたのかというと、仏教政治との決別を図るためです。

◯桓武天皇から遡って5代前に当たる聖武天皇(第45代、在位:724~749年)は、その四半世紀に及ぶ在位期間で「鎮護国家」の方針のもとに、自身が篤く信仰する仏教を国中に広めました。

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「鎮護国家」とは、仏教には「災いをめて国家をる」力があるとする考えです。つまり聖武天皇は仏教の力にすがって国家を平穏に治めようと考えたのです。仏教の興隆のために寺院建立に次々と財政が注ぎ込まれました。しかし、そのために以後の天皇の治世において仏教勢力(僧侶)が政治に強い影響力を持って介入するようになっていくことになります。いわば圧力団体と化したのです。

①-(1)宇佐八幡神託事件

◯特によく知られるのが称徳天皇(第48代、在位:764~770年)に寵愛された道鏡です。*称徳天皇は孝謙天皇(第46代、在位749~758年)として政務を執ったのちに上皇(太上天皇)として退きますが、重祚して(再び即位すること)天皇の座に返り咲きます。重祚後の名前が称徳天皇です。

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称徳天皇は病気を患った際に道鏡の加持祈祷によって治癒したと信じ込んだことから、彼に太政大臣禅師さらには法王といった地位を与えて出世させ、自らの政治をサポートさせます。

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◯すると仏教勢力にとって有利になる政策が推進されるようになり、寺院以外の加墾禁止令が出されます。寺院以外の勢力がこれ以上土地を開墾して私有化することは認めないというわけです。このように、称徳天皇を後ろ盾にもつ道鏡実質的な最高権力者と化して政治を支配していきます。

◯しかし、道鏡が権勢を振るうことができるのは、称徳天皇の庇護があったればこそです。もし称徳天皇が亡くなったら失脚する可能性は十分にあります。そこで道鏡が思いついたのが、自らが天皇になることです。

◯すると、道鏡は太宰府(九州の筑前国に設置された地方行政機関)で太宰主神(大宰府管内の祭祀・神事をつかさどる)の職にあった習宣阿曾麻呂という人物を使って、「豊前国(現在の大分県)の宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば、国家は安泰になるという神託(神のお告げ)がもたらされました」と嘘の奏上をさせます。

称徳天皇宇佐八幡宮を深く信仰していたことから、これを聞いて道鏡に皇位を譲ろうと考えます。しかし、さすがにこれには朝廷内で反発が起こったので、称徳天皇和気清麻呂という人物に命じ、この神託が本物かどうかを確かめさせるべく宇佐八幡宮に派遣することにしました。このとき道鏡は和気清麻呂に「神託は本物でしたと答えれば、高い位を与える」とそそのかします。

◯しかし、宇佐八幡宮から帰ってきた和気清麻呂「天皇は必ず皇族を立てるべき」という神託を受けたと報告します。これに怒った道鏡は、和気清麻呂の名前を別部穢麻呂と改名した挙げ句、脚の腱を切って大隅国(現在の鹿児島県)への流罪に処しました。

◯こうして道鏡の野望は阻止されたわけですが、この一連の事件を「宇佐八幡神託事件」と呼びます。このような事件が起こることからも、いかに僧侶が政治に強い影響力を持っていたかが窺い知れます。

①-(2):784年:長岡京遷都

◯こうした仏教勢力のしがらみから逃れるために、桓武天皇は新しい都を造営して政治の拠点を移そうとしました。

◯桓武天皇はまず長岡京に遷都します(784年)。しかし、この長岡京の造営中に造営長官(最高責任者)の藤原種継暗殺されるという事件が起きます。

◯調査の結果、遷都に反対する勢力の仕業であることが判明します。さらに、実弟で皇太子の早良親王も関与していたこともわかります。これに怒った桓武天皇早良親王を検挙して流罪とし、淡路へ流します。しかし、早良親王は無実を主張して抗議のために食べ物を一切口にせず、配流先へ護送される途中で餓死してしまいました。

桓武天皇は息子の安殿親王を跡継ぎにするために、不仲だった皇太子の早良親王を、種継暗殺を利用して首謀者に仕立て上げ、排除したという説もあります。

◯いずれにせよ、これ以後、桓武天皇の周囲で近親者(夫人の藤原旅子や母の高野新笠など)の死が相次ぎ、そればかりか疫病の流行凶作や洪水といった天変地異など不幸な出来事が重なります。

◯さらには息子の安殿親王まで病気にかかったので、桓武天皇陰陽師(暦や天文、方位などから吉凶を占う専門家)にこの不幸な出来事の原因を占わせました。

◯すると、「これは早良親王の怨霊のしわざである」という結果が出たのです。これに怯えた桓武天皇は、早良親王の祟りから逃れるために、造営途中で長岡京を放棄してしまいます。ですから、長岡京が都だった期間はわずか10年しかありません。

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①-(3):794年:平安京遷都

◯そうして再び遷都に取りかかり造営されたのが平安京です。長岡京からわずか数キロ北東の場所です。

京都盆地北部のこの場所は、新都の造営に必要な樹木も多く、水利も良いばかりか、風水の理論的にも素晴らしい場所でした。現在でも広く利用される「風水」ですが、これは中国の伝統的な「気」の力を利用した環境学のことです。都市や住宅、墳墓などを作る際に、地勢や方位、地脈や陰陽の気などを考え、良い自然環境を求めようとするもので、模範とする中国の都造りでは風水の理論が重要視されていました。

◯新都造営に選ばれたこの場所は、北・東・西は山に囲まれ、南には川や湖があり開けています。このような構造の地形は、まさに風水の理論に基づいた理想形である「四神相応の地」だったのです。こうして造営された新都は「平安な世の中になりますように」という願いを込め、平安京と名づけられました。ここから「平安時代」が始まります。

◯なお、この平安遷都を強く提唱したのが、あの和気清麻呂です。宇佐八幡神託事件道鏡の怒りを買い、九州の果てに流された和気清麻呂でしたが、道鏡はその後、称徳天皇の後を継いだ光仁天皇(桓武天皇の父)によって下野国(栃木県)に追放されました。それによって復権を果たし、再び歴史の舞台に登場したのです。そしてこの平安京は「千年の都」として1869(明治2)年まで、日本の首都としての歴史を刻んでいくことになります。

②軍事(蝦夷征服)

◯都づくりに並ぶ桓武天皇のもう一つの大きな事業が、蝦夷の征服です。東北地方には朝廷に従わない勢力がおり、朝廷は彼らのことを「蝦夷」と呼びました。この蝦夷が父の光仁天皇の治世から反乱を起こし続けていました。最初の反乱は伊治呰麻呂の乱(780年)です。

②-(1):789年:紀古佐美を派遣→阿弖流為に大敗

◯以降、東北地方では紛争が頻発してきたため、替わった桓武天皇は紀古佐美に命じて東北遠征を行わせます(789年)。しかし、蝦夷の首領(族長)阿弖流為の前に大敗してしまいました。

②-(2):797年:坂上田村麻呂を派遣→阿弖流為降伏

◯797年、桓武天皇は、坂上田村麻呂征夷大将軍に任命して再び大軍を派遣させます。征夷大将軍とは、「蝦討」するための最高指揮官という意味です。この坂上田村麻呂の活躍によって、ついに阿弖流為を降伏・服属させることに成功し、岩手県の北部まで朝廷の支配が及ぶ地域を拡大させました。

③徳政論争により二大事業中止

◯ところで、桓武天皇の二大事業である「新都造営」と「蝦夷征服」の同時進行には当然莫大な費用がかかります。労働力や兵役に取られた農民たちは耕作に手が回らず、彼らの生活を苦しめることになりました。農民の耕作に影響を与えるということは、税収の低下につながります。そのため、朝廷内において「二大事業を中止にするべき」という意見と「二大事業は完成まで継続させるべき」という意見が対立します。これを徳政論争といいます。

◯この論争の結果、桓武天皇はできるかぎり民衆が耕作に専念できるように、二大事業の中止を決定しました(805年)。そのため、平安京はいわば「未完成」の都となってしまったのです。平安京の復元模型を見ると、西南の区画の中は荒れ地のようになっており、「未完成」に終わったことがよくわかります。

〈今回の内容のまとめ〉

桓武天皇(第50代、位781~806年)の治世(1) 二大事業(造作軍事
「造作」(新都造営):平城京→長岡京(784年)→平安京(794年)
(背景)仏教政治からの脱却 例:宇佐八幡神託事件(by道鏡
784年:長岡京遷都 →造営長官藤原種継が暗殺される
          ↳関与した早良親王を淡路へ流罪に処す
          ↳桓武天皇の近親者の死や天変地異が相次ぐ
          ↳早良親王の呪いだと信じ、長岡京を造営途中で放棄
794年:平安京遷都 *「千年の都」として1869(明治2)年まで首都
(提唱者)和気清麻呂(宇佐八幡神託事件で流罪、道鏡の失脚により復権)
②「軍事」:蝦夷(東北地方)征服(征夷大将軍坂上田村麻呂
(背景)父の光仁天皇の治世に伊治呰麻呂の乱(780年)が起きる
    ↳以降蝦夷は朝廷への反乱を頻発させる
789年:紀古佐美に命じて東北遠征
    ↳首領阿弖流為の前に大敗
797年:坂上田村麻呂征夷大将軍に任命して再び大軍を派遣
    ↳首領阿弖流為を降服・服属させることに成功
③朝廷内で徳政論争が勃発したため、桓武天皇は二大事業の中止を決定

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