非当事者からトラウマ治療を受ける意味

私が受けたトラウマ治療について、少しずつ書いています。
トラウマ治療では、主に母からの暴力の記憶を扱いました。それ以外にも、


・中学時代いじめのターゲットにされたときの記憶
・高校時代に今度は自分が「いじめの傍観者」になってしまったときの記憶


などを一緒に扱っていただきました。


自分がいじめの傍観者として過ごしてしまったことについては、無意識でこんなに自分を責めていたとは驚きました。

自分が直接被害にあった訳でもなく、あの頃の私に何ができたわけでもなくても、「加害と被害の関係が目の前で展開される」ことは、本当に苦しかったのだと思います。

そんな私のトラウマ治療をしてくださった先生は、特に虐待サバイバーというわけではなさそうでした。元々大学で生物学を専攻していて、人間の神経系への興味からトラウマ治療に取り組むようになった先生でした。

今日は、ひとつの経験として「虐待サバイバーが非当事者の専門家から治療を受けてどうだったか」と言う話をしようと思います。
非当事者に被害を打ち明けることに抵抗や恐怖を感じている方も少なくないと思うからです。

もちろんち非当事者かつ想像力が足りない治療者によって傷ついた方もいらっしゃると思います。私もお世話になった臨床心理士さんとすべて分かり合えたわけではないし、「100%安全な人」はいないと思います。

でも、だからって当事者だから安全とは限らない。
同じ経験をしたから、あなたの気持ちが分かる。そう思い込んでいる治療者がいるとしたら、その人はもっとトレーニングが必要かもしれません。
「同じ経験」も「同じ気持ち」も、本当は存在しないのだから。

私は、当事者が何年も相当のトレーニングを積んで治療者となることは否定しているわけではありません。そうした方が求められる場面もあると思うからです。

ただ私の場合は、治療者が非当事者で良かった面はあったと思っています。
というのは「非当事者に虐待された経験を話す」ということ自体が、私を力付けてくれたからです。


1.私たちは、虐待サバイバーがマイノリティ(ということになっている)世界で生きている

私の生い立ちを、専門家とはいえ虐待被害の経験がない人に打ち明けることには不安がありました。理解を得られず、やはり「お前がすべて悪い」と言われて、余計にボロボロになるのではないかと恐れていました。

それでも治療に踏み切ったのは、
「私は『虐待サバイバーじゃない人たち』が多数派の世界で生きていかなければいけない」
という思いがあったからでした。

その世界の人たちは、みんなどんな感覚で生きているのか。その橋渡しをしてくれるのが、非当事者の専門家なのかもしれないと思いました。

実際、臨床心理士の先生を通して、私がもつ人間関係のクセに気づくことになりました。

・「何かの役割を果たさなければ、そこにいてはいけない」と思い込んでいること
・出会った人が敵か味方かを気にしてしまい、そこが確定するまでは不安でおかしくなりそうになること。などなど…。

(本当は、大半の人は敵でも味方でもないのですが…。でも昔の私は、相手が「攻撃してくる人」だと分かったら、かえって安心していました。
 うまく言えないけど、私の中の何かがひっくり返っていたようです。)

トラウマ治療を進めるなかで、一つ一つのことに答えを出していくのは私です。でも治療者が感じる私の感覚への違和感も、重要だと思います。
私の場合は、「虐待サバイバーの当事者でない人」だから感じる「私への違和感」を必要としていました。


2.非当事者が理解して、信じてくれるということ。

私はずっと自分の経験について、
「誰も理解してくれない」
「きっと信じてもらえない」
「信じてくれても、ドン引きして人が離れていくだけ」
「どうせ、私が悪いとか、私のものの見方が歪んでるんだと言われるにちがいない」
と思って生きてきました。

正直、現実もそうした面はあると思います。みんな時々ニュースになる以外は、自分の生きている世界は平穏だと信じていたいから。そしてそれは、自分の心を安定させるためにも大切なことだと思います。

(やっぱり残酷な虐待経験を話さないのは『思いやり』ではあるんだよね。
 相手の混乱とか困惑とかを慮るなら、よっぽど必要でもない限り、話す気にならないな。)


臨床心理士との社会面接の話はまたしっかり書きますが、どんなハードな記憶を扱う時よりも初回面接に臨むときが怖かったです。
虐待の話を生々しく伝えるのは初めてで、相手の反応なんて未知だったから。

そして、いざ面接。
私は受けて来た虐待の概略を話しながら、手や足が震えてきました。これは緊張のためではなく、受けて来た虐待について私が語る言葉や声音に身体が反応してのことでした。

「こうして話してみて、身体のふるえを感じてみて、当時の自分がどれだけ恐ろしい思いをしていたのかが分かりました」
と、私は話しました。

心理士の先生は、
「そう。身体は動いているの。あなたの身体の反応を見ていれば、それが本当に起こったことだと分かります」
と返してくださいました。

勇気を出して、来てよかったと思いました。

その後、3年強つづいた治療のなかで、先生は私の語りをそのまま受け止めてくれました。

勿論、EMDRや自我状態療法、SE(ソマティック・エクスペリエンス)いった最新のトラウマ治療は、私のぐちゃぐちゃな神経系(興奮したり、落ち着いたりがコントロール不能でした…)を鎮めてくれました。

ですが、特に私のように外面のいい親から虐待を受けてきた人間には、語りを受け止めてもらう。それは虐待だったと自分で認められるようになる。そうしたこと自体が大切だったのだと思います。

「経験をしていない人にも分かってもらえた」ということ自体が癒しになることを、治療中、何度も感じてきました。

私は、今なら確実に虐待を疑われる怪我をしたこともありますが、医療機関も学校も気づいてくれないか、見てみぬふりをされました。私は親だけでなく、助けてくれない世の中にも絶望して育つことになりました。

そんな私が受け止められる経験をすると言うのは、世の中への見方が変わる(私も特別いいとも思ってないけど、そこまで悪くもないのかも)きっかけにもなりました。

そして何よりも、経験を共有していない相手に「語る」「伝える」ということ自体が、私には静かな自信になったのを感じています。

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