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追憶の草花

二日に一度足を運ぶ公共浴場には、大きな花の鉢植えが幾つかある。
その花は、例えば桜のように端から端まで点々と花を咲かせる事はなく、いつもひとつやふたつ真っ赤に花開き、また訪れる時には見るに耐えないほど、くしゃくしゃに萎れ潰れている。

母はハイビスカスではないかと言った、確かに見た目はそれらしいように思えた。
けれども、私はとくに「正確な名前」という答えが欲しいとは思わなかった。多分、分かれば「そうなのか」と思うことはあるだろう。けれど、調べる術があったとしても、試みることはこれからもきっとないだろう。

図鑑と許可を得て撮らせてもらった写真とを照らし合わせ答えに近づこうとするわけでもなく、施設の管理人に訊くわけでもなく。
名も知らない花のまま。けれどもそれで良かった。私は鮮烈な色彩、あの赤の放つ美しさ、そして萎びて乾涸びて散り落ちていくあの儚い姿。それを愛でていられれば、ただそれだけで良かった。
私は究極の面倒くさがり屋で、花を育てたりなどはとても出来ないだろう。けれども、植物の見せる凛とした佇まいや儚さに、立ち止まり眼を凝らさずにはいられない。

子供の頃、父がよく畑に何かを植えていた。薄っすらと残る記憶を辿れば浮かんでくる、畑で育ったトマトを食べていた、幼い自分の姿。

甘いとか、酸っぱかったとか、色が綺麗だったとか。そんな詳細なことは思い出せもしないほど遠い過去の出来事だった。
けれども、作りすぎて手に負えなくなり、敢えなく無造作に畑の隅っこに転がされてしまうという末路を辿ることとなったトマトを見た時の、あのシュールな哀愁ぶりだけは、忘れられない。

庭には昔から何本も木が生い茂っていて、今はもう枯れてしまった姫林檎だとか、柿だとか、琵琶だとか、あとはよく分からない木や花々がそこら中に生えていた。
季節により、その色彩は万華鏡を覗き見るように変わる。果実の甘ったるい匂いも、草いきれから生じる青臭さも、土の感触も。物心ついた頃にはすでに私の一部だった。

時は慌ただしく流れに流れ、自宅の庭の状況も当たり前のように変わり、所々ひどく荒れてしまった。
時間の流れは、やりきれぬ残酷さをも齎すものだとも思った。変化は当然のように父にも母にも現れ、とくに父の精神や肉体は、荒廃の一途を駆け抜け続けた。
そして、その命は初春のまだ肌寒い日の朝、枝から落ちる一枚の葉のように、静かに終わった。

「人はある日、突然いなくなってしまう、呆気なく死ぬんだ」という衝撃は、胸に深く突き刺さるナイフのようだった。

身体は布団にすっぽりと覆われていても、やがて氷の塊のようにカチコチにかたく冷たくなる。いくら話しかけても「あ」の一言も、いつもは五月蝿いな煩わしいなと感じる鼾(いびき)のひとつも聞こえてこない。その顔は眠るように穏やかであっても。

父は精神的にも肉体的にも、いつも病気がちで、「死の淵を彷徨う人生、死と隣り合わせの人生」を色濃く感じていた。幾度となく忍び寄ってくる死を、運によりすんでのところで回避している気がしていた。
父には死がいつもいつも間近にある。幼い私の目はその姿を見つめ、不安を背中で感じつつも、何となく「この先も生きていてくれるだろう」と思っていた。何の根拠もない、娘の単なる願望、期待であったことをも、知りながら。

咲き誇る花を、散る花を、見るたびに思う。生命の息吹を感じる季節に生まれ、そして同じ季節に生命を散らした父。
父は日々何を思い生きていたのだろう。

私は父が死ぬその時まで、実際に人がいなくなる、すなわち「死ぬ」ということの、しかも身近な人の死というものが「どういうもの」であるのか、実感できていなかった。考えようともしていなかった。いや、今もきっと実感できてなどいないのだろう。難しすぎて、私には何もわからない。だから、死を想う時、いつも口を噤んでしまう。

死とは何なのか、生とは何なのだろう。何となく「輪郭」をなぞって分かったつもりになっているような気がする。今生きているのだから考えても仕方がないことなんだよと、湧き出る思考に蓋をしてしまう。目をそらす、閉じる。見ないふりをする。或いは考える暇などないと。

私はいきなり冷たくなった父の亡骸を、燃やされて粉々になった父を、実際にこの目で見ていたけれど、当時の感覚としては、本当にただそれを文字通り「見ている」だけだった、と記憶している。

まるで横たわる年老いたマネキンを眺めているような感覚、白い砂粒を間近でぼんやりと見つめている感覚。
分かるのは「父は死んでしまったらしい」「どうやらこの"肉塊"は私の父であるらしい」ということだけだった。

突然の死だった。その「事実」は確かに衝撃的であったのにも関わらず、私は至って理性的かつ冷静であるかのように、淡々と執り行われる通夜や葬儀に参列していた。

私の頭は現実に追いついていなくて、ただ受け入れられていなかったのだろうと、当然のことだったのだろうと、今では思う。
目の前にある現実は私にとっての現実ではなかった。曇りガラスの前に立っている、現実が映らない。

一筋の涙も流れてはくれない。涙ぐみさえしない。流れるのは時間だけ。何もなかったかのように元の生活に戻っていく現実に、置き去りにされているようだった。私の頬を濡らしてくれないという事実にさえ、私の頬は依然、干からびたまま、時間は刻一刻とまた過ぎていった。

𑁍

ある日、私は父の声も姿もなくなった部屋を覗き見た。
私はいつも、父の座っている場所を、その横顔を眺めていた。今思えば、年老いた父の「生存確認」をしていたのかもしれない。
当然のことながら「定位置」に父はいない。今の今まで当たり前のようにそこにいると思っていた存在はあるはずもなかった。主を失った部屋には、心音のようにカチ、カチと時を刻む、時計の秒針の音だけが響いている。

私は部屋にある小さな引き出しを開け、そこに、数枚の写真を見つけた。船の模型の写真。父は船が好きで、船の模型を生前、よく作っていた。

写真を見た瞬間、私は現実を「取り戻した」ようだった。目の奥から熱が放出する感覚に震え、現実が涙とともに帰ってきたのを感じた。胸の中に温かいものが、じわりと広がるのを感じた。

素直な気持ちを綴れば、父に対してどういう感情を抱いていたのか、自分でもよく分からない。今でさえ、愛憎も嫌悪も引きずっている。果たして流れたのは、悲しみ一色の涙だったのかと問われれば、少し違うような気がする。

このまま生きて年老いてますます衰えていく父の姿を想うとぞっとして、それを間近で見るのはとても耐えられないだろうと思えば、そこから解き放たれて重荷が背から下りたような気もする。色々な感情が絡み縺れ解けない糸のような、複雑な気持ちを抱く中で、一生感情を閉じ込めたまま吐き出せないという苦しみから、一早く抜け出したかった。

写真はかなり昔のもので、父の好きだったものから、比較的元気だった頃の父との記憶が想起されたのだろうけれど、たった数点の過去の思い出から初めて「死を受け入れられる」こともあるのだと、私はその時全身を通して知った。

𑁍

毎年、刈っても刈っても伸びてくる大量の庭の雑草に頭を抱えている。
これが一年に幾度もすさまじいハイペースで「どや?よく伸びたやろ?」と誇らしげに緑を主張してきて、太陽光に照らされる青さに目眩がしてくるし、近くを歩けば青臭さにうんざりしたりもする。

綺麗な花を咲かせはしないし刈る手間はかかる、それでも彼らはそんなのは御構い無しに年がら年中、性懲りもなく、辺り一面を緑で埋め尽くして、なお「まだ生やし足りない」と言わんばかりなのである。

母と私はその状況に「手の負えなさ」を感じているのだが、隣家の年配の方が、ときどき草刈機で草を刈ってくれる。ありがたいことに、これが毎年の恒例行事なのだった。

季節は初夏、窓を開けて少しでも風を感じたい時季だ。ガガガガガ、ギュイーンと、鳴り響く金属と草のこすれ合うような音がする。私は思う、草を刈ってくれてありがたい。ああ、でも風にのって「やつ」がやって来る、青々とした匂いが──。

匂いには記憶を呼び起こす効果があるという。ある香りを偶然嗅いだ時に記憶の片隅にあった人物や、情景のことを思い出すらしい、とよく耳にする。
例えばああ、これはこの匂いは、あのひとが愛用していた香水だったなあとか、そこから、あのひとはあんな人柄だったなあと、どんどん記憶が広がっていくなんてことがあるのだと。「プルースト効果」というらしい。

この効果に該当するのかは分からない。けれど、私は毎年のこの青臭い匂いに、過去が、今までの人生が、自分の身近にあったものが、一気に引きずり出されるのを感じる。私の一部。

植物が好きだったであろう父との思い出も、小学校の帰り道、友人と謎の草花を摘んでは持ち帰ったことも、秋桜畑を見た過去、朝顔を育てた過去、初春庭に咲く椿、そして父が好きだったフリージアに想いを馳せる。

かつて庭を彩っていた植物も。すべてが私の奥深くで繋がっている。「過去」の記憶が発掘される、そんな時がある。
匂いは、記憶を目覚めさせるトリガーなのかもしれない。

庭は荒れ果てた。
父の人生は終わりを告げた。
時間は流れた。
記憶は断片的になり薄らいでいくだろう。花弁が剥がれ落ちていくかのように、音もなくゆっくりと。
父の顔の造形も、声も、私の手を握っていた手の感触も、植物で満たされていた日々も、慌ただしく過ぎ去る日々に攪拌され思い出すことも少なくなっていく。母と交わす話題の中にも父の存在は姿は、確認できなくなっていく。
これは当然の成り行きなのだと、万物は流れゆくのだと長い時を経て受け入れて、そしてたまにふと思い出すのだろう。

草木の匂いがする。花の匂いがする。匂いがあれば、思い出せる。喪失にやり切れなさを感じた時には、荒れ果てた庭を見て、風を感じよう。
私の身体が、精神が、いつか朽ち果てるその日まで。
鼻を掠める木々や草花の香りに、その佇まいに。眼を凝らしていよう。

2020.3.10

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