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契約関係と忖度関係~私的な人間関係論

つい先ほど、人間関係に対する個人のスタンスを、契約と忖度に分けるという視点を思いついたので備忘録として書いてみる。
※契約と忖度という呼び方は、便宜上の名前で、一般的に使われている意味とは異なるかもしれない。
以下で、出来る限り、この場ではどういう意味で使っているかを説明してみる。

契約と忖度の違いを、いわゆる空気を読むという表現をしたときの「空気」をどういう意味で捉えるかで説明すると、
忖度型は、他者がこう思っている、考えていること
契約型は、はっきりと言語化されておらず、その場の構成員の意思と直接は無関係だが、その集団の目的には沿っているルール
ということにする。

忖度型は皆がだいたい似たような思い、考え方を持っていることを前提としている。
契約型は、人それぞれの差が大きいことを前提としている。
忖度型は1対1の関係や、価値観の似通った気の合う少人数の集団に向いている。
私の場合は1対1や少人数のときは、忖度と契約の混合型になる場合が多い。
契約型は特に集団の規模が大きくなると必要不可欠になるはず…なのだが。

私の経験でいうと、小学校時代の学校生活は、集団の規模が大きくなっているはずなのに、忖度型で運用されていた。
まず、みんな仲良くしましょうというルールがあったとする。
しかし、実際にはクラスに人気者がいたり、少人数のグループで固まっていたり、ぼっちだったり、何ならいじめられている子がいる場合もある。
契約型だとしたら、一人一人に皆と仲良くする義務があり、また一人一人に皆に仲良くしてもらう権利があるということだ。
この場合は、ほとんど全員がルール違反をしているので、極端な話、大多数が契約違反で小学校に通えない事態になる。
しかし、契約型は個人差が大きいことを前提としているので、このような守るのが明らかに無理なルールは設定されないだろう(多分)。

忖度型だと、このように守るのが無理なルールが建前として存在するケースがある。
建前だから守らなくてもいいのだが、どういう基準か分からない一定のラインを越えると、攻撃されたり排斥されたりする。
契約型としては、一生懸命空気を読んで、ルールらしきものを見つけて守ろうとしても、厳格に運用されていないので、どうしたら守ったことになるのか分からない。
忖度型の視点では、空気が読めないのが悪いのだ。
逆に攻撃するのは悪いという空気があると、先に相手に権利を侵害されたから反撃したという事情があっても、悪者にされるリスクがある。
ならばルールの運用側、例えば教師に不正を訴えるという、契約型からしてみれば正当な手続きを踏んでも、相手が忖度型だとしばしば話が通じない。

私は忖度型が間違っていると言いたいのではない。
契約型での運用が向いているケースで、忖度型を採用すると問題が起こると言いたいのだ。
契約型のメリットの一つに、義務を果たせば権利が得られることがある。
このメリットは忖度型に対して悪用できる。
明確な義務が規定されていないのならば、権利だけが得られるのだ。
例えば学校でいえば、ごく一部の人に配慮するために、大規模な改築工事が行われるケースだ。
弱者には配慮すべきという空気があり、なおかつ学校側が忖度型で、権利を主張している側が弱者カテゴリに入っていると、このようなことがまかり通ってしまう。
忖度型には、義務を果たさず権利だけを主張する者に対する明確な罰則がない。
(なんかあの人ズルいよね、仲間はずれにしちゃお、みたいな、気にしなければどうということはない罰はあるかもしれない。もし気に障る罰を与えられたら、また権利を主張すればいいのだ)
これが契約型だと話は簡単になる。
契約には双方に契約するかどうかの選択権があるので、うちの学校では無理ですねと拒否するか、契約するとすれば権利を主張する側にそれ相応の義務を果たしてもらえばいいのだ。

私はこのように学校生活のような比較的集団の規模が大きい場所で、契約と忖度の差異に苦慮しており、人間関係の悩みはかなり深刻だった。
通常の契約関係のような、契約しない、つまり学校自体に通わないという選択権は、実質ないに等しかった。
何故このような不都合が起きたのかは、自己家畜化と関係があると思う。

私は先ほどから忖度型のデメリットばかり主張しているが、逆にメリットといえば、人の温かみや人情を感じること、気の合う相手とこのような交流がかなうと、何ものにも代えがたい穏やかな喜びがあることだ。
だから私は、ごく私的な小規模な範囲では混合型になる。
契約型の振る舞いもするのは、忖度型のみだとすれ違いが生じやすいので、長期的に関係を維持するのに必要だからだ。
もう無理だと思ったら、すっきりと関係を解消できるメリットもあるが。

私は後にごく限られた人としか関わらないことによって、悩みを小さくするという手段に出た。
もともと一人が好きなので気性に合っていたという理由も大きい。
ただ私は普段からアグレッシブなタイプではないので、それだと生活基盤に弱点がある。
それに忖度型の交流のメリットに憧れもあった。

それを解決すべく婚活して、現在の夫に出会った。
まず彼とは人間関係のスタンスが合っている。
コミュニケーションがスムーズで、これだけでもかなり貴重だ。
しかも話題の幅が多岐にわたる人だった。
この前など「私の以前に書いた記事、地動説と0をめぐる雑感」

に興味を持ってくれて、この記事はまとまりのない内容だが、彼との対話では考えをさらに発展させて、私たちの寿命があるうちは訪れないだろうが、案外近い将来のような、何万年後かのかつて人類だった者の姿のような、生命の行く末を見せてくれた。

私が彼と出会ったとき、何よりも惹かれたのは、破壊と創造の象徴のように見えたことだ。
これこそまさに、そのときの私に欠けていたものだった。
彼は私に創造のために破壊する勇気を奮い立たせてくれた。
彼に直接何か言われたわけではない。
彼の生き方そのものが、それを体現していた。

だからもういいのだ。
これから激動の時代が訪れるだろうが、現実的な悩みもなくなった。
今後も気ままに何か書いたり、書かなかったりしようと思う。

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