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「自分に投資をする」ということは

「日本人にとっての“自分”というものは、ちょっとしたことで『困ったことになった·····』と首をうなだれてしまうような、脆弱なものだった。『必要なものを必要なだけ“自分”というものに投資して、いざという時になって平気でいられるような強い自分を作る』などという、贅沢な発想は、貧しい日本人の中になかった。ただ、『金を貯めて万一に備える』なのだ。昔の私が─そしてそれは今でも変わらずにそうなのだが─『貧乏が嫌いだ』というのは、貧乏というものがそんな風に“自分”を虐待しておいて、その“虐待”にまったく気がつけないでいるからだ。」

「『自分に投資をする』というのは、『自分に必要なものとはなにか?』を考えることから始まるのであって、そんなことは、アカの他人には分からない。『さっさと“自分に投資する”という次の時代に必要なことをマスターしておいて、次の時代の落ちこぼれにならないようにしよう』という発想から、『自分に投資をするためにはなにをどうすればいいんですか?』なんていう質問も飛んでくるんだろうが、こんなものの答は一つしかない。『“自分に投資する”ということがどういうことか分からなかったら、とりあえずそんなことを考えるのはやめろ』ということだ。」

「『いったい自分にはなにが必要なんだろう?いったい自分にはなにが欠けているんだろう?いったい自分はなにがほしいんだろう?』─それが分からなかったら、分かるまで考えていればいい。“自分への投資”は、金ではない。時としてそれは“時間”だったりもする。」

「他人のいる人間社会の中で暮らしていく人間にとって、“自分”というものは、『自分の責任によって管理し、他人に迷惑をかけない』というその一点において、責任重大なものなのだ。」

「『特別なことは望まない、人並みでいい』というのも、ある意味で“一つの選択”だ。だから、そうしたいというのなら、それでもいい。しかし、それだからと言って、“人並み”ということを、あまりにも低く解釈しないでほしい。『責任ある立場についている人間』にとっての“人並み”とは、『責任者らしく、きちんと事に対処できる』ということなのだから。『きちんと事に対処する』の中には、『私のせいです、ごめんなさい』と言うことや、『この件は余りにも大きすぎて、私の手には負えません、ごめんなさい』と言うことでもある。他人と一緒に生きている社会の中にいる人間にとっての“自分”とは、『その程度のことができなければいけないもの』であったりもする。『その程度のことができるような“自分”になるためには、きちんと“自分”というものに投資をしなければいけない』ということなのだ

その程度の“贅沢”ができる程度の“豊かさ”が、この日本には、もうあったはずだ。その“豊かさ”を、『金の量だ』とだけ考えていれば、その“豊かさ”が、『実は“余裕”という“時間”に置き換えられるものだ』ということは分からない。
『自分に投資をする』は、『自分の責任で“自分”というものをちゃんとさせる』ということで、『どうしたらそれができるかは分からない』というのは、あまりにも情けないことなのではないだろうか。

がしかし、日本人は、どうやらそんな発想ができなかった。『自分をなんとかするために“自分”に対して金を使う』ができなかった。自分で金を使えず、自分に投資をすることができなかった日本人は、そのかわり、その余ってしまった金で、金を買った。『貧乏な自分─人並み程度の自分に投資なんかしてもしかたがない』と思って、自分の子供たちに、“教育”という形の投資をした。自分に投資できずに、他人にくれてやった─下心つきで。」

橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの未来計画』


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