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見直しには知識がいる〈日めくり橋本治〉

「不思議なことに、人間が“現状”というものを見直そうとする時、あんまり“知識”というものはいらないと思われている。どうしてかというと、『自分はこの現状の中に生きている。だとしたら、自分はこの“現状”というものをよく知っている』なんて風に、人間というものが考えるからだ。『もう“知っている”なんだから、これ以上のよぶんな知識はいらない』と。しかし、本当にそうなんだろうか?
“自分”というものは、自分なりにしか生きていない。自分は自分なりに生きていて、その“自分”なるものを取り巻く“世の中”というものは、『自分』という考え方をする一個人とはまた違った成り立ちによって動いている。だから、『“自分”を言う人間は、その人間なりに生きているだけ』なのだ。そういう風に思わない人間は、『自分は世の中の要求する基準に従って生きている』と考える人間だ。あるいは、『世の中というものは、自分とおんなじような人間だけによってできている。だから当然、自分には“世の中”なるものが分かる』と。ところがしかし、“世の中”というものは、ある個人の思惑とは別のでき方をしているし、別の動き方もしている。だから、『この自分と世の中との間にはなんのギャップもないはずだ』と思っていた人間は、自分と外側との間にギャップを感じた時、文句を言う──『この現状は間違っている!』と。『この現状は間違っている!オレにはそう断言できる。なぜならば、オレはこの現状の中に生きていて、オレはこの“現状”というものをよく知っているから』と。しかしこの考え方は、自分中心のいたって妄想的な考え方だ。“自分”は“自分なり”にしか生きてはいなくて、その“自分”の前にある世の中は、また世の中なりのできあがり方をしているからだ。
自分と他人が違うように、自分とその自分のいる世の中とは違う。違うところがあって当たり前なのだが、しかしうっかりすると人間は、『自分はもうこの世の中で生きているのだから、この世の中に関するよぶんな知識はいらない!』と言ってしまいがちになる。他人は他人の基準で生きていて、その他人を知るためには、“その他人”なる個人を支えている背景や基準を知らなければならない。“自分の生きている現状”だって、それとおんなじなのだ。」

「どんなものでも、“それ”を分かるためには、“知識”というものが必要なのだ。“知識を得る”という特別な作業抜きにして“分かる”ということは起こらない。『見直しには知識がいる』─それだけのことだ。」
─橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの資本論』


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