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本を読んで感動したら、その著者に会いたいと思いますか?

「重要なのは、“著者”なんかじゃなくて“その本の中に書かれてあること”と、その本を読んだことによって生まれた─あるいは発見出来た“自分の心(その中にある部分)”なのである。その二つは一つで、その本を読んで自分が感動してしまった以上、その本に書かれているものは、“自分の心”なのである。そうでなかったら、“他人の書いた本を読んで感動する”なんてことは起こらない。

そういうものを書く他人は、もういないのだ。“自分の心”を書けるものは、ただ一人“自分”だけである。その本を書いた“著者”という人はいたのかもしれないが、自分がその本に書いてあることに感動してしまったら、もうそんな“著者”なんかいらないのである。『自分の心の中をはっきりさせてくれた本』は、『自分が読んだ本』で、“自分は読んだ”ということだけが重要なのであって、それを実際に誰が書いたかなんてことは、関係ないのである。『自分のことをはっきりさせたい』と思う私にとって、重要なのは、“その本の著者がその本を書いた”という“他人の行為”ではなくて、“自分はその本を読んだ”という、“自分の行為”なのである。そう思ってる人間が、どうして自分とは直接に関係のない“その本の著者”なんかに会いたいと思うだろうか?全然思わない。私はただ、『この本読んでトクしちゃった』と思うばかりなのである。

だから、感動して行き場がなくなって、それでその本の中に入り込むしかないというのが、私にはよくわからない。感動したら、その感動を持って、自分の現実に帰って行くのが本当なのだ。

感動しちゃって、そのことをきっかけにして成長しちゃって、こないだまでいた“自分の現実”が、もう今の自分には合わない“過去のもの”になってしまって、『感動したおかげで帰るところがなくなっちゃった』というのは、よくあることだ。人間というのは、そうやって成長して行くもんなんだから、そんなのは当然だ。

“成長する”というのは、“その先”へ行くこと。“その先の段階”は、“まだ行ったことがないところ”で、そんなところに行ってしまったら、しばらくの間は『どうしよう……』と思って、一人でボサーッとしているしかないのだ。

だから、感動しちゃったらしょうがない。その感動して成長してしまった心を抱いて、『この自分の心が生かせる現実を、改めて作るか探すしかないな』と思うもんだ。“探す”にしろ“作る”にしろ、“新しい現実”なんてもんはそうそう簡単に登場するもんじゃないんだから、感動して成長しちゃったその後は、しばらくの間の“孤独”にたえるしかないのだ。“しばらくの間”か“けっこう長い間”かは知らないが、現実というものは、そうそう簡単にこっちのつごうに合わせてくれるもんじゃない。それを知るのが、今までとは違った人間になる、“成長”というプロセスなのだ。」
──橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)』


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