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休学日記③貧困と選択を考える 

この休学日記シリーズは休学期間中に、学び、考え感じたことを私なりに共有するものである。
以下に簡単に私の情報をまとめる。

就職前に、私の半分の国であるナイジェリアにどうしても行きたくなる。
→早稲田大学を休学。
→現地で日系企業の投資事業のインターン生の資格を得る。
→ナイジェリア渡航・滞在
→インターンを終了。(今ここ)

現在はインターンを終了し、隣国のベナンを少々旅している最中である。
ナイジェリアに渡航した経緯及び現地の様子については、以下の休学日記シリーズより閲覧できる。時間がある際に読んでくれたら嬉しい。

さて、今回はナイジェリアで生活している際に経験したことを基に意見を述べる記事である。
あくまで私なりの意見や考えであり、押し付けるものではない。この記事を読み、皆さんなりの、新たな考えや価値観の形成に少しでも貢献できたら嬉しい。

貧困と選択

仕事帰り、会社の現地人ドライバーとともに会話をしながらラゴスのVictiria Island(ナイジェリアの首都ラゴスでも経済的に発展した地域。オシャレなカフェやレストラン、海外企業のオフィスが集まる場所)を車で走り抜ける。キラキラとしたネオンが輝く建物が私の目の前を通り過ぎていく。
対象的に、ボロボロに破けた服を着て、暗闇と同化した現地の貧しい人々が物乞うために私を目掛けて車を追いかけてくる。

ドライバーはその様子を横目にみながら言う。
"That is their choice." (働かず物乞いをするのは)彼らの選択だ。

本当にそうなのだろうか。
私はその言葉を自分の頭の中で何度もリピートする。
なぜか、その言葉を聞いたとき、私は上手く返答できなかった。
うやむやに返したのか、一言も発さなかったのかは覚えていない。

ただ、ナイジェリアで生活する中で何度も同じ光景を見る機会に遭遇し、改めて貧困と選択について時間をかけて考えてみた。

前提: 貧困であるとき選択肢は限られてくる。
食事、生活、職業、夢、将来。
全ての物事は選択の連続だ。選択肢のある人のみが選択を比較し、その選択の良し悪しについて迷い悩み、味わい楽しむことができる。

選択肢の豊富さは、世間を貧富の物差しで測った時に比較的富をもつ者に与えられると私は考える。

では、物乞いは選択なのだろうか。
金をある程度もつ者の中には、金を持たない貧しい人々を努力不足であると、そうなってしまった自分自身に負があると考える人もいる。
会社のドライバーはそのような考えをもつ人々の一人であろう。
日本にいても何度かそのような努力不足を謳う人々の話を聞いたことはある。

では、彼がその物乞う人々と全く同じ環境で、全く同じバックグラウンド、教育経験を持っていたとしたら、彼は今現在と同じような人生を努力で築けていたのだろうか。
答えは「分からない。」の一言に限るだろう。
ただ、Noとも言えないし、Yesとも言えないのだ。

極端に貧困であると、どうにもならないことがる。
仕事を探すもなかなか見つからない。住む場所もない。
毎日毎日お腹が空いている。
誰かに最後の望みをかけて乞い願うしかない。
それしか今できることはないのだから。

全く同じ人生を生きていない者がその事実を努力不足の一言で片づけてしまうのは単純すぎないだろうか。

BBQをしている際にご飯を共にした現地の貧困層子供。ご飯について感想は言わず、無言で食事をとり続ける。食事を楽しむ(enjoying)というよりは入れ込む(feeding)。食事を楽しむのも選択である。貧しければ、選択などせず、栄養のために食べれるものは全て体内に入れ込むのだ。

ナイジェリアに限ったことではない。国々、国内、地域、個人。マクロからミクロまですべての領域に大から小であれ必ず格差は存在する。

そしてその格差において、比較的Highにいる人はLowにいる人がその地位に位置していることを努力不足だと思う人もいるかもしれないが、私はそのようには思えない。(比較的上層にいる人をHigh、下層にいる人を、Lowと表記する。)

一人として全く等しい人生の構成要素を有していないこの世の中で、他人の人生を比較して努力不足というには少々単純すぎると感じる。

全く同じ人生を生きていないのだから、その人の人生における努力を完全に比較することはできない。


ただ、不平等が存在するという事実があるだけである。

もちろん、貧困レベルによっては自身の努力でどうにか変化を生み出せることも沢山あるのも確かだ。
ただ、
Lowに位置する人は、あくまで自分自身でその努力の必要性を感じ取り、できる範囲で実行していく方がいいのだろう。
Highに位置する人はあくまで自分自身の努力経験を口にし、他人の人生を自身の経験から上から目線に判断しない方がいいのだろう。


また貧困レベルが極度になればなるほど、選択など全うに出来ないものだ。
今生きるために、命を繋ぐためにしないといけないことをするだけだ。
選択肢はそれしかないのだ。

特に、日本とは極度に異なる貧困層を有する国に身をおいた私は全身で感じざるを得なかった。
「食事を楽しみ、キャリアについて悩み、様々に広がっていく夢について高揚感を覚えている自分は、あぁ、なんて贅沢だったんだな。」と。

当たり前に不平等な世界で、私は日本に生まれ育ち、大学へ行き、休学するかどうか迷い、ナイジェリアに来た。

そんな私自身はまさしく贅沢であったと。
もちろん、一般的な家庭に生まれており、日本国内においては必ずしもHighに位置するとは言わないだろう。

だからこそ、自分を贅沢だと思う経験はナイジェリアに来るまで全身で強く感じることはなかった。
食事を楽しみ、夢や将来について迷い悩むことを当たり前のように感じていたのだ。

もちろん、私はそんな贅沢を決して悪く言うつもりはない。

ただ、この世の中は不平等であり、選択肢も人によって限られている事実が存在するというだけだ。

では、比較的Highの位置にいる人には何ができるのだろう。
私は何ができるのだろう。
押し付けたくはないから、自分がしていきたいことを記そう。

私の物差しはナイジェリアに来て様々に出会い、大きく、長く、広くなった。普段とは極端に異なる現実に鉢合わせたとき、自分自身の位置をより広いレンズで比較することができる。

贅沢を惜しめとは言わない。
ただ選択肢を比較し、どれにしようか迷い、選択を下す機会を不平等なこの世の中で私に与えられたという事実を私は忘れたくない。強く感謝したい。
そして、自分の持っている能力を自分の出来る範囲で社会に貢献し、私だけに与えられた人生を思いっきり生きたい。

休学して自身の半分であるナイジェリアに来れたことも私の人生に与えられ、自身で選ぶことができた選択肢であった。
この選択に感謝を示すと同時に、
あぁ、もっと与えられた人生を大事にして精一杯生きたい。
そう考え、感じさせてくれる経験であった。

ちせ







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