見出し画像

信長の正室「濃姫」の妄想止まらず

試写会に行ってきました!

LEGEND&BUTTERFLYレジェンド アンド バタフライの試写会にウチの主人が応募していたらしく、それが当選し、27日の公開に先駆けて鑑賞しました。

ネタバレはありません。

監督は大好きな「るろうに剣心」の大友啓史
脚本は「どうする家康」「三丁目の夕日」の古沢良太

これは期待できるコンビですよね~!

なんと偶然にも、レキジョークルメンバーのリンさんも当選していて、そちらもご夫婦で観賞です。

実は付き合いが25年ほどにもなるので、夫同士も子供たちの行事などで顔見知りのため、当日は現地で懐かしい顔合わせとなりました。

さて、この映画、一言で言うと「ラブストーリー」です。

織田信長の人生は「桶狭間の戦い」で始まり、「本能寺の変」で終わるという、衝撃的でセンセーショナルなものでした。

不明な点がまだまだ多く、いまだにどちらの事件とも詳細はわかっていません。
それだけに、いくらでも妄想でき、いくらでもロマンある設定が出来ます。

この映画も、あり得ないと思えるシーンに驚きましたが、あくまでも可能性はゼロでないという前提で観るべきです。

信長の意外な実像を描いていますが、今回は正室である「濃姫」にスポットを当て、これから観ようとする方々の予備知識の一つとして参考にしていただけたら嬉しいです。


濃姫とは?

1535年、美濃国守である斎藤道三と正室・小見の方の長女として生まれます。

小見の方は美濃国では一番の名家である明智氏の出身なので、あの明智光秀と濃姫とは母方の従弟とされる事が多いのですが、光秀の出自がはっきりせず、これもまた特定はできません。

父・斎藤道三については話がややこしくなるので、今回は割愛します。

名前もわからない

この当時の女性は出身地や居住していたお城や館の名がそのまま通称になる事が多く、「濃姫」という名も「美濃から嫁いできた姫」という意味でそのまま通称となりました。

しかし、美濃国の史書・軍記である『美濃国諸旧記みののくにしょきゅうき』では帰蝶きちょう、尾張国・前野家の家譜武功夜話ぶこうやわでは胡蝶こちょうとあり、本名は定かではありません。

どちらの史料も信憑性に欠け、特定できないのです。

記憶に新しい2020年の大河「麒麟がくる」では「帰蝶」と呼ばれ、川口春奈さんが可愛い顔をして、したたかな暗躍ぶりを見せていました。

この記事では通称名である「濃姫」で通します。


信長とは3度目の結婚

織田信長の正室となったのは1549年、濃姫が14歳の時ですが、彼女は過去に2度の政略結婚の経験があります。

最初が美濃守護の土岐頼純ときよりずみでしたが、なぜか頼純は急死します。
「麒麟がくる」では父の道三(本木雅弘)が毒殺したという設定で、そのシーンは話題となりましたね。

次も同じ土岐一族の土岐八郎頼香はちろうよりたかに嫁ぎますが、『信長公記しんちょうこうき』によると、道三が無理やり濃姫を押し付けようとして、頼香が逃げた為、切腹させたとあります。

しかし、この八郎頼香はちろうよりたかは存在自体があやふやなのです。

道三は、娘を嫁がせては夫となった人を次々に亡き者にしたと記録にあり、当時の武家は政略結婚が当たり前とはいえ、年端もゆかない実の娘を自分の都合で利用しているのは明らかです。


信長の正室なのに謎が多すぎる

さて織田家に嫁いでからの濃姫の消息は途絶えます。
あの超が付くほどの有名人である魔王・信長の正室なのに、「わからない」とは一体どういうことなのでしょう?

それには様々な憶測がなされています。

不仲だった?

これは信長とはあまりにも不仲のため、側にいなかったという事でしょうか?
しかし当時の女性は高貴であっても記録がない事もあり、それだけで不仲だと確定することはできません。

宣教師・ルイスフロイスの「日本史」によると、「信長が濃姫のために建てた館は、圧倒されるほど美しかった」とあり、それを裏付けるように岐阜城の麓から金箔瓦の破片が、2016年に出土しています。

これは信長の濃姫への愛情の表れだとも取れ、仲睦まじかったのではと想像できます。


離縁した?

2人の結婚は完全な政略結婚です。
双方の父親同士の思惑があり、両家にとって有利だから結ばれた縁なのです。

まもなく信長の父・信秀が病没し、1556年の濃姫21歳の時、父の斎藤道三が嫡男の義龍に討たれてしまいます。

もともと、道三からの人質として嫁してきたのに、そうなると織田家にいる意味が無くなった上、結婚してすでに6年経っているのに2人の間には子もいなかったため、濃姫は用済みとなり追い出されたという説があります。

あるいは、完全にスパイとしての役割だった濃姫は、父が没してしまうと、その意味自体がなくなり、自分から離縁を申し出たのかもしれません。


病没したか?

織田家に嫁いで間もなく、病没してしまったとの説もあります。
そうならそうで、その記録があってもよいはずなのですが、どこにも無いのです。


本能寺の変で共に戦ったか?

司馬遼太郎氏の「国盗り物語」でもそうなっていましたが「本能寺の変」にて一緒に戦死したという説。
おそらくこれは完全な創作だと当時から思っていたのですが、実は史実として裏付けるものが残っているのです。

「濃姫遺髪塚」というものが岐阜県に存在し、本能寺の変で死亡した濃姫の遺髪を家臣がここに埋葬したと伝わっています。

う~ん。創作話だと思っていたことがもなんだか真実味を帯びてきました。


天寿を全うした?

信長没後の記述にみられる女性たちのいずれかが、濃姫である可能性があります。

「安土殿」
信長の次男・織田信雄の家臣の家格や役割などに応じて、所領や扶持高ふちだかなどを記した『織田信雄分限帳ぶんげんちょうに、「安土殿」という記載があり、600貫文の化粧料が与えられています。

女性としては1位信雄正室、2位実妹の徳姫、次の3位に記載されていて、さらに次の4位には信長生母・土田どだ御前とあり、かなりの厚遇を受けているのです。

「養華院」
織田の菩提寺は京都の大徳寺総見院がありますが、
その「泰巌相公縁会名簿たいげんしょうこうえんかいめいぼ」の記述に
養華院殿要津妙玄大姉 慶長17年壬子7月9日 信長公御台」とあるのです。

葬られた時期が慶長17年(1612)とあるので、これが濃姫だとすると数え年78歳で没した事になります。

大徳寺には織田信長をはじめ一族の供養塔があり、その中に養華院の塔もあります。
長い間、これだけは誰のものか不明でしたが、総見寺の記述を基にすると、これが濃姫である可能性は高くなります。

しかし、他に残されている記述では、養華院は信長の愛妾とあり、あらたな疑問が浮上してしまうのです。


側室が正室として扱われた?

信長には28人の子供がいると推定され、少なく見積もっても20人以上はいました。あの徳川家康でさえ実子は16人ですから、ぶっちぎりに多いのです。

愛妾も多く、そのうちの誰かが、正室に近い扱いを受けていた可能性もあります。

側室は身元の確かな女性だけで7人で、特に愛妾として有名なのは「生駒吉乃いこまきつの」と「お鍋の方」でしょうか。

生駒吉乃いこまきつの
吉乃は、信長の嫡男・信忠、次男・信雄、家康の嫡男・信康に嫁いだ徳姫という織田家にとって重要な役割を担う子たちを産み、1566年に28歳という若さで病没してしまうのです。

その頃は、「桶狭間」から6年後で、信長が足利義昭とともに京へ上洛を果たす2年前です。

吉乃はまだまだこれからという早い時期に没しているので、吉乃=正室の可能性はないようです。

お鍋の方
信長と敵対していた六角氏家臣・小倉実房の妻でしたが、未亡人となり信長を頼って側室となりました。
信長との間に七男・信高、八男・信吉、水野忠胤に嫁ぐ於振おふりをもうけます。

信長没後は信長と信忠の廟所を岐阜の崇福寺に造営し、秀吉から知行を与えられたり、さらに晩年は秀吉の正室・ねねの側近筆頭にまで登りつめます。

もしかしたら、このお鍋の方はかなりのやり手で要領も良かったようなので、最終的に正室として扱われていたかもしれません。


正室は濃姫ただ一人

話を濃姫に戻します。

確証できる説はないのですが、早世説や離縁説を取るなら、信長ほどの立場なら、生存中に誰かを継室にしていいはずですが、濃姫は後世にまで唯一正室とされている女性なのです。

これは信長も彼女を誰よりも信頼していたという証ではないでしょうか?


濃姫は出産していた?

同時代の公家・山科言継やましなときつぐによる『言継卿記ときつぐきょうき』に、「信長本妻」が女児を生んだと記録されています。

本妻の子であるのにその女児が誰なのか、どうなったのか不明のままで、もしかしたら間もなく死亡したかもしれません。

そもそも、その本妻が濃姫だと断定もできませんが、もしそうなら、信長との関係は、決して冷め切っていたのではなく、普通の夫婦生活はあった事になります。


織田家を取り仕切っていたのでは?

幼少期から父・斎藤道三に振り回され、織田・斎藤両家の板挟みの結婚生活を送り、戦国の無情さを身をもって体験してきた彼女は、おそらくかなり気丈な女性だったと憶測できます。

というのも、信長には多くの愛妾がいながら、彼の生涯を通して女性がらみの揉め事は一切なく、後継者争いさえ皆無だったのです。

これは正室・濃姫が、家内を取り仕切っていたからではないか? 

側室・吉乃の子である嫡男・信忠と次男・信雄は、濃姫の住む「清州城」で育ったと記録にあり、この記述だけでも信長だけでなく、吉乃からも篤く信頼されていたのがが伺えます。

通称名も変わって当然

実家の父も美濃国も、信長のものとなった時点で、通称名も「濃姫」であるのは違和感があります。

それが「安土殿」なのか「養華院」なのか、それとも他にあるのか定かでないのがもどかしいのですが…

おそらく、信長が美濃国を平定した時に彼女の決意は決まり、それ以後の人生は織田家の人間として生きる決心ができたのではないか?

家内に留まり、あくまでの影の立役者として徹した可能性があります。


私としては、信長没後も天寿を全うしたと思いたい。
「安土殿」が「濃姫」であり、生涯信長の正室として扱われ、多数の側室達からも尊敬されるような人間であったと思うのです。


◇◇◇


それにしても…
「本能寺の変」の跡地で、どうして信長の遺体は発見されなかったでしょう?
これもまた様々な説が浮上していますが、生き延びたという可能性もゼロではありません。

本当に俺様主義の魔王であるなら、逃げ延びてひっそり生きる事は考えられませんが、もし信長の本当の性格が違っていたら?

とんでもない妄想さえしてしまう映画でした。




【参考文献】
産経ニュース
歴史上の人物・com
戦国ヒストリー
織田信長と濃姫




いつもスキを頂きありがとうございます!

最近、油断していてスクショの失敗が多いです💦




この記事が参加している募集

日本史がすき

おすすめ名作映画

サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。