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イギリス・カンタベリーでの合掌に関する想い出話

私はイギリスのカンタベリーに留学中、クリスチャンのご家族と仲良くなった。毎週日曜日、彼らが通う教会に訪れ、交流を重ねた。

その夫婦には小さな娘がいて、よく自宅に招かれて、その子と日本語で話すこともあったっけ。もちろん、ご夫婦ともお茶を飲みながら、色んな話をした。

その話の中で合掌が話題になったことがあった。

クリスチャンの方と語った拠り所の話

「人は一人では、自分を支えきれない。だから拠り所がある。クリスチャンである私達は大きな樹に依って生きている。大きな樹は神さま。そのしっかりとした寛大な樹に私達は依っている」

奥さんはそのように言った後、更に私にこう問うた。

「仏教ではどうなの?」と。

仏教全体がどう考えているかは言えないが、私はこう応えた。

「人は1人では、自分を支えきれない。それはそう思う。だからこそ、人は人の支えになれる。要するに「人」という字と同じこと。日本語ではこのように書く。1人では偏るからこそ、その偏りを他の人と支えて合う」

そして私は、あることに気づき、続けてこう言った。

「そんな人の姿が、合掌(手を合わせる)の形に表れているのかもしれない……」と。

あんまり考えたことがなかったが、奥さんの質問のおかげで、私の中で合掌は、この時からそういう意味が加わった。

「合掌」に関してはこちらのブログにてまとめています。


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