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スイミング・プール(感想)_男女の駆け引きと、美しいサスペンス

『スイミング・プール』は2004年5月に日本公開の映画で、監督はフランソワ・オゾン。
リュディヴィーヌ・サニエとシャーロット・ランプリングが裸になるも、そんな下世話な話題性よりも映像としての美しさや、皮肉の効いたサスペンスとしての印象の方が強く残る映画だと思う。
以下、ネタバレを含む感想を。

英国女性による逆襲劇

サラ・モートンはロンドン在住で独身の中年女性。「ドーウェル刑事」の活躍する人気シリーズを手掛ける売れっ子作家で、出版社のジョンとは長いこと不倫関係にあったが、最近はジョンのサラに対する態度は冷たい。

「ドーウェル刑事」シリーズの売上は好調だが批評家からは見向きもされない大衆向け小説で、サラ自身も作家としての才能を持て余しているが、ジョンは出版社の売上にならないからと、サラが本当に書きたいと思っている純文学を望まない。

朝からストレートのウィスキーをあおって気分を高め、アポ無しでジョンのオフィスへ行くも、ジョンの興味は「ドーウェル刑事」の新作だけで女としてのサラへ関心を示すことはない。
しかし気分転換にとジョンの持つ南仏の別荘へ行くことを勧められ、サラは一人で行くことにする。

南仏の別荘はプール付きの静かで過ごしやすい家で、環境に満足したサラは気ままに執筆に取り組んでいたが、そこへ突然ジョンの娘ジュリーがやってくる。

ジュリーは若く美しい女性で崩れた色気もある。奔放なところがあって、男をとっかえひっかえ連れ込み、しかも中年で冴えない見た目の男が多いため、ファザコン気味なところがあるのかもしれない。

サラとジュリーはお互いを疎ましく思っていたが、サラがジュリーを題材にした小説を書くことを思い立ち、ジュリーのことを探り始める。そうしてジュリーもサラの小説を盗み見て、自分のことが書かれていることを知ってサラへ興味を持つようになる。

ジュリーは近くのレストランで働くウェイターのフランクをいつものように別荘へ連れ込むも拒絶され、衝動的に殺してしまう。フランクのことを問いただすサラに、殺した理由を「わからない、あなたのため、本のため」と言う。

二人は死体を隠蔽後に別荘を去って、サラは新しい小説をジョンのもとへ持ち込むも、ドーウェル刑事の新作を期待していたジョンの表情は優れない。
反応を予想していたサラは別の出版社から出す予定だと既に出来上がった本をジョンに突きつける。

その後、サラがオフィスから出るのと入れ替えにやって来たジョンの娘は名前がジュリアで顔も歯列矯正をしていた。
さらに、別荘の二階からプールにいる娘にサラが手をふるシーンでは、ジュリーとジュリア両方が使わており、「現実」と「サラの創作」の境界が曖昧なまま物語は終わる。

サラという女性はジュリーの第一印象のとおり、シニカルで嫌な英国女であるのだが、ジョンに女として求められなくなってもプライドを捨てず、ビジネス上の立場を逆転させる気の強さであったり、ジュリーの買ってきたワインをこっそりラッパ飲みして、減った分を誤魔化すために水を足したりと、どうにも憎めないところがある。

他者を操る駆け引き

本作には様々な駆け引きのシーンがあって、ほどよい緊迫感が魅力となっている。

最初にジョンのオフィスへやってきたサラは、ジョンと男女の関係を続けられるかどうかの最後の賭けに出ていたのだと思われる。だから朝からウィスキーをあおってアポ無しで訪れた。
対して、ジョンはサラに女としての興味を失っているが、ドーウェル刑事の新作を書かせたいから機嫌を損ねずにサラを追い返したい。
お互いの求めるものがすれ違う男女によるそんなせめぎ合いがあるのだが、そんなジョンの目論見はサラに見破られているわけで、サラは最終的に他の出版社から本を出版することで決別の意志を示し、さらにビジネス上の立場は逆転した。

かつてはサラもジョンとの関係を楽しんでいたとはいえ、若さや、家庭を築きたいという希望、または純文学作家としての道を、ドーウェル刑事シリーズを望むジョンに才能を浪費させられたサラとしては、その才能でもって、ジョンに仕返しをしたともいえる。

フランクを連れ込んだジュリーとサラのやり取りも興味深い。
ジュリーはこれ見ようがしに身体を密着させたりしてフランクを誘おうとするし、サラとしてはフランクに興味はあるが、ジュリーの手前、積極的に行動することも出来ない。
そうしてジュリーは、フランクがサラへ気のあることに気付いてフランクを独占しようとプールに誘ったりと必死だ。
フランクがサラに気のあったのは意外だったが、このあたりはサラの創作小説内での出来事だったとするならば、敢えてそういう設定にしたのかもしれず、サラの女としてのプライドの高さが垣間見える。

緊迫感とユーモアが混ざり合った最も趣深いシーンは、やはりマルセルが死体を埋めた地面に気付いた場面。
肝心のジュリーはプールサイドで横になっていてマルセルの様子に気付きもしないので、サラは二階から「マルセル」と呼び、胸をはだけさせて誘惑するのには驚かされた。殺人を隠蔽するために何の前触れもなく庭師を誘惑するという意外性と可笑しみがあって印象深く、欲望の前に思考が停止してしまう男という生き物の哀しみもある。

現実と創作の境界が曖昧に

この作品はラスト、プールから手を振る娘がジュリーとジュリア両方のシーンが存在することで現実とサラの創作との境界が曖昧になっている。

具体的には、ジュリーは存在していたのか、いたとしたら殺人は起きたのかという二点が大きいのだが、別荘からロンドンに帰ってきたサラが、ジョンのもとを訪れたシーンについて、小説版ではこうある。

サラが渡した新作小説には、デフォルメされた四人のサラが登場する。
まず、若々しくてセクシーだった頃のサラ、ジョンに純文学作家としての未来を否定され踏みつぶされたサラ、家庭を築きたいという夢をジョンに否定されたサラ、そして、マンネリの刑事シリーズから脱皮したいともがくサラ。

現実とサラの創作の境界の捉え方は、観る人によっていくつかあると思うが、この言葉の通りならばジュリーの存在そのものが創作だった可能性が高い。

つまり、サラは別荘にあった美しい女性の白黒写真からインスピレーションを得て粛々と小説を書いていた。庭師のマルセルやレストランは実際に存在していたし、フランクというウェイターも存在していたのかもしれないが、殺人事件は起きていない。(起きていたら小説としてジョンに見せないだろう)
いずれにせよ、このようなことを想像して考察できることも含めてこの作品の魅力となっている。


当時発売された輸入盤のサントラはCD2枚組で、テーマ曲のピアノの音色がプールの水がしたたるようで、ミステリアスな雰囲気を味わえてたまに聴きたくなる佳曲。
他にも『焼け石に水』で4人がダンスするシーンで使用されていたTony Holiday「Tanze Samba Mit Mir」や『8人の女たち』でリュディヴィーヌ・サニエの歌う「Papa T'es Plus Dans Le Coup」なども収録されているため、オゾン作品のファンに向けた内容となっている。


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