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この本で学んだ16のこと 『「空気」と「世間」鴻上 尚史』

①「空気を読む傾向」はますます強くなる

藤原さんは現在の日本人はテレビでキャラの演技化と学習し、日常生活では場面に応じてキャラを選んで演じていると話す。つまり「空気を読む」とは日常と言うテレビ番組に出演するようなもの。この傾向はさらに強まると、藤原さんは予測している。「空気読む技術」を鍛えられている子供たちが大人になるからだ。学校塾スイミングスクールで、担任教師、塾の先生、コーチが作る場の空気を読み取る。その連続の中にある子供たちの日常。日常と言うテレビ番組と言う表現は秀逸だと思う。若くなればなるほど人間関係の作り方の基本形をテレビから学習していると言う事。その学んだ方法をそのまま日常に持ち込もうとしていると言う事。

②空気とは、世間が流動化したもの。

世間とは、「あの世間が悪い」とか、「世間を騒がしたとか」の世間。その世間がカジュアル化し、簡単に出現するようになったのが空気だと思っている。世間とは何かそれを明確にすることが空気の正体を明確にする道でもある好き。

③おばさんが電車をとめるのは、「世間」を大事にしているから

おばさんは自分に関係ある世界で、親切でおせっかいな人のはずです。そして自分とは関係ない世界に対しては存在していないかのように関心がないのです。この自分に関係のある世界のことを「世間」と呼ぶのだと思います。そして、自分に関係ない世界のことを「社会」と呼ぶのです。おばさんは世間に関心があっても、社会には関心がないのです。そして、自分の世間に属している人のために、必死で走る電車の席を確保するのです。

④社会と世間の成り立ち ダブルスタンダードに生きる日本人

明治十年(一八七七)頃に societyの訳語として「社会」という言葉がつくられた。そして同十七年頃にindividualの訳語として「個人」という言葉が定着した。それ以前にはわが国には「社会」という言葉も「個人」という言葉もなかったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の「社会」という概念も「個人」という概念もなかったことを意味している。
では、どうして今までなかった、「社会」や「個人」という単語を発明しなければいけなかったのかというと、富国強兵政策の名のもと、わが国を強引に西洋化する過程で、国会や裁判所などの政府機構、税制、教育、軍制などの概念を国民に説明するためには、「社会」「個人」という単語が必要だったからです。
阿部さんは続けます。
欧米の「社会」という言葉は本来「個人がつくる社会」を意味しており、個人が前提であった。しかしわが国では個人という概念は訳語としてできたものの、その内容は欧米の個人とは似ても似つかないものであった。欧米の意味での個人が生まれていないのに「社会」という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。特に大学や新聞などのマスコミにおいて社会という言葉が一般的に用いられるようになり、わが国における社会の未成熟あるいは特異なあり方が覆い隠されるという事態になったのである。しかし、学者や新聞人を別にすれば、一般の人々はそれほど鈍感ではなかった。人々は社会という言葉をあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず「世間」という言葉を使い続けたのである。
「社会」という言葉が定着しなかった結果、「そんなことをしたら世間が許さない」「世間体が悪い」言い方。そして阿部さんは建前として社会と本音としての世間が日本に生まれたとします。
日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しないのです。そして、もちろん、独立した「個人」が構成する「社会」なんてものも、日本にはないんだと言うのです。
日本人は「社会」と「世間」を使い分けながら、いわば、ダブルスタンダードの世界で生きてきたのです。
「社会」とは、文字と数式によるヨーロッパ式の思考法です。「近代化システム」と呼べるものです。僕たちは、「建前」と言ったりします。
「世間」は、言葉や動作、振る舞い、宴会、あるいは義理人情が中心となっている人間関係の世界です。「歴史的・伝統的システム」と呼べるものです。「本音」ですね。
が、これまでの社会学者や歴史学者は、「世間」のことを、例えば、「封建遺制」古くて残ってしまったシステム)と呼んで、やがては滅んでいくもの、間違ったもの、改良していくもの、だと考えています。
けれど、「世間」つまりは、「歴史的・伝統的システム」こそが日本人が生きている世界だと、阿部さんは言うのです。

⑤それは「理屈だ」と「しょうがない」が意味するところ

たまに耳にする。「それは理屈だ」という言葉。この言い方は例えば英語には翻訳不可能。理屈に合っているのなら、何の問題もないから、それは理屈だと言うのは褒め、言葉になっても、けなし言葉や拒否の理由にはならない。
ですが、あなたと僕は日本社会に生きているのなら、この言葉が含んでいる意味を簡単にわかる。「それは理屈だ」っていう人間というのは、
「そんな簡単に理屈は切れるものではない。論理的にはお前が言っていること正しいけれど、それでは世間を納得しないだろう。もっと人間の事情や感情を考えろ。」ということ。
これは西洋的な個人の概念から出てこない言葉。
ウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』では、
「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。シカタガナイと言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「シカタガナイ」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることになる。本当は信じていないのに、信じてたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立たされる。

⑥世間のルール

【世間のルール1 贈与・互酬の関係】
お互い様、もちつもたれつ、もらったら必ず返す。
重要なのは、その際の人間は人格としてそれらのやりとりをしているのではないと言う、贈与関係における人間とはその人が置かれている場を示している。存在だって人格ではない。あなたに送っているのではなく、あなたの地位に送っていると言う事。そして人間ではなく立場に送るのですから、その立場にふさわしい金額のものを送るなと世間では生きていけないと言うことになる。
【世間のルール2 長幼の序】
【世間のルール3  共通の時間意識】
・所与性
自分で掴み取るものでなく、与えられているものということ。世間と言う共同体は自分が選んだものではなく、知らないうちに巻き込まれ、そこに既にあるものだと言うこと。
【世間のルール4  差別的で排他的】
被差別部落に対する差別は世間と無関係に存在していたのではない。なぜなら、世間それ自体が差別的体系であり、閉鎖的性格をもっているから。私たちは日々の日常生活の中で世間からはみ出さないように細心の注意を払って暮らしている。世間が差別的体系であることをよく知っているからである。
【世間のルール5 神秘性 呪術性】
世間に生きる人たちは迷信やおまじないやジンクスやしきたりなどを信じていて、そして、それを守ることを求められるている。ということ。
田舎に行けば行くほど、伝統的な世間が強力になればなるほど守らなければいけない手順、踏み込んではいけない場所、などが増えていく。それがどんなに非生産的で不合理だと思っても、昔からそういうやり方をしているという一言でそのしきたりや伝統や迷信は守られる。論理的な根拠はないけれど、それが大切なことだと思えば、伝統と呼ばれる。その世間からはみ出ている人からすれば、全く根拠を発見できないので迷信と呼ばれる。
田舎以外でもメンバーが固定していて、閉じた集団になれば、なるほど、同じことが起こる。論理的な根拠のない外の人からは必要と思われる。仕事の手順が増えたりする。そうすることで、世間は仲間と仲間でない人間を分けて、別の言い方をすれば、世間はその世界に属していない人から見たら、実に不合理なルールで動いていて、それはその世間の中にいる人にしか理解されないということ。
合理的論理的な筋道が通らない場合、それは神秘的と言うしかない。犯罪を犯したから有罪なのではなく、有罪と思われたから、有罪と言うのは言ってみれば、現代人の思考方法ではなく、もっと昔の魔法や呪術が力を持っていた時代の思考方法と言えます。神秘性は儀式性としても現れます。しきたりや迷信伝統を守るためには儀式が欠かせないものだからです。ですから、世間には無害者から見たら無意味としか思えないような儀式がたくさんあります。それはその儀式に出席することが世間の一員であると言う確認だからです。そういう意味では結論が出ている。ダラダラとしたただいるだけの残業は儀式だと言える。認識は取り行い、参加することに意味があるのです。その中身に意味はありません。

⑦西洋の「社会」を作り出したのは、キリスト教

不合理なものを排除し、徹底的に自分を見つめ、自分の内面を探ることで個人が生まれた。西洋の個人は神と言う絶対的なものに対して自己を確認しようとする姿勢の中で生まれたのである。人間は放っておけば、試験のような集団を作るものなんだ。それは日本もヨーロッパも同じなんだと例証した。キリスト教定システムがなければ、西洋もまた世間が続いていただろうと言う。大胆な研究までは、日本人の世間と欧米人の社会を分けるのは、一神教のキリスト教の存在なのだ、と明確に描写した。そして世間を信じてしまう。日本人は別に劣っているわけでも間違っているわけでもなく、人間は協力な一神教がなければ自然にそう思うんだと言うことを明らかにした。

⑧空気は世間が流動化した状態

空気とは、世間が流動化した状態であると言うこと。つまり世間を構成する5つのルールのうち、いくつかだけが機能している状態が空気だと考えている。逆に言えば、空気とは世間を構成するルールのいくつかが欠けたものだと思っている。5つのルールは、明確に機能し始めた途端に、流動的に一時的だった空気は固定的で安定した世間に変化する。

⑨近所づきあいは「空気」と「世間」を選び始めている。


近所付き合いでは、伝統的な地域共同体社会が続いている場所には世間が生まれる。どこに誰が住んでいて誰が顔役なのかがわかっている。近所付き合いでは長幼の序も贈与・互酬の関係も明確に機能している。農村や漁村と言う利害関係が密接に絡んでいる地域になればなるほどそれは協力になるけれど、新築マンションの管理組合とか新興住宅地の住民同士の付き合いでは世間ではなく空気が生まれる。それが長い時間の中で誰が年上で誰が年下かわかり、情報やアドバイスを中心に贈与互酬の関係と深まり、地域の発展と行政との折り合いと言う意識が生まれれば、共通の時間意識が育ち、世間になる場合もある。ただし、世間が壊れている現場では、そこまでの固定的な世間に飛び込むのを拒否して、そういう世間のルールに参加するのを嫌がって空気の段階でお付き合いやめておこうと言うする人も増えた。

⑩本当の判断基準は「論理的判断基準」ではなく、「空気的判断基準」

われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。

⑪世間とは

「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の総称なのである。具体的な例をあげれば政党の派閥、大学などの同窓会、花やおスポーツなどの趣味の会などであり、大学の学部や会社内部の人脈なども含まれ、近所付き合いなどを含めれば「世間」は極めて多様な範囲にわたっているが、基本は同質な人間からなり、外国人を含まず、排他的で差別的な性格をもっている。

⑫農作機械の出現以前は「世間」が必要だった

世間は経済的セーフティーネットではなくなった。村は世間の掟の下に個人をしっかりと縛った。それは精神的なものという以前に農作物の収穫と言う経済的な要請があったから。集団で稲作を始め、守り収穫することが村の最重要課題でした。その時各人がバラバラなことをしていて成立しなかった。その意味で、世間は西洋の一神教に匹敵する強力な神だった。またもし収穫の時期に何かトラブルが起こってしまうと、1年間の準備と労働が無駄になってしまいます。だからこそ世間は厳しく贈与・互酬の関係を決めたのです。今年は自分は休んでしまった。その分村人が自分の分も収穫してくれたから、来年は誰かの代わりもちゃんと勤めよう。それは精神的なつながりと言うよりは、経済的に生き延びるための人間の知恵だった。
昭和になっても、農村社会ではまだつながりは強力でしたが、農作機械の発達や兼業農家の増大により各家単価の作業の割合が徐々に増えていった。

⑬人は「共同体の匂い」に従属することでも安心する

イギリスで1人でいた時、ある時1人のイギリス人のクラスメイトが話しかけてきました。彼の目には上位のものが下位ものをあわれむ匂いがありました。優れた白人が寂しい劣ったアジア人を心配していると言う自己陶酔にも似た偽善の匂いがありました。
それでも僕は話しかけられて嬉しかったのです。ずっと1人で寂しくて孤独だったとき、相手は僕を哀れみ、見下ろす形で話しかけているとわかっても嬉しかったのです。「共同体の匂い」でも人は生きていく希望をもらえるのです。ただ問題は「共同体の匂い」と言う空気に敏感になる事は常に多数派を意識することになると言うことです。自分の意見に従うのではなく、常に多数派の意見を気にして多数派の決断に従うようになります。そうすればとりあえず「共同体の匂い」に包まれて生きることができます。友達の集団、同僚の集団、趣味の集団、常に自分の意見ではなく、多数派の意見を探り力のあるボスがいれば、ボスの意見を探り、有能な司会者がいれば、その瞬間の空気を読み続けることで、とりあえず責められる事はなくなります。けれど共同体ではなく「共同体の匂い」ですから、いつその集団がなくなるかは分かりません。空気は世間が流動化したものですから、多数派といえども不安定でしょう。

⑭何を選ぼうとも喜びと葛藤がある

何を選ぼうとメリットデメリットあると思っている。別の言い方をすれば、喜びや快適さや苦労や苦しさの両方があるだろうと言うことです

⑮日本語はコミュニケーションのツールとして過剰な性能

英語には、「you」という一言しか、相手を指す言葉はありませんが、日本語に「お前」「あんた」「君」「あなた」「貴様」「てめえ」「おたく」とさまざまな表現があり、そう表現するだけで、それぞれの豊かなニュアンスを伝えることができる。これが、「ミュニケーションのツールとしての過剰な性能」ということです。だから、日本語は空気を生みやすい言語だ。

⑯「相手とちゃんと交渉できる能力」を出すためにはまずは「自分の欲に忠実にいること」

ビジネスとお互いの対立する利害を調節しながら、相互に利益を望もうとする活動です。どちらか一方だけがバランスを変えた利潤を出し続けていては現代の経済活動が成立しません。つまりはまずは自分の欲望に忠実になることが大切なのです。なんなら社会に生きるもの同士、それが迷惑になるかどうかはお互いの欲望をぶつけてみないとわからないからです。何が迷惑なのかわかっているのは世間ですけれど、グローバル化が進めば、自分の活動や欲望が相手の迷惑になるかどうかは、実際にぶつかってみないとわからないのです。そして迷惑だと相手が考えているとわかったら調整すればいいだけのことですけれど、やる前にはわからないです。相手を傷つけるとか人のものを盗むとかの話ではないですよ。そんな人間としての困難なこと言ってるのではありません。求められるのは、相手を思いやる能力ではなく、相手とちゃんと交渉できる能力なのです。


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