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無数の物語へ──河瀬直美『東京2020オリンピック SIDE : A』

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾『堕落論』(青空文庫より)

その映画は降りしきる雪の景色から始まる。

皇居の外濠と思しき景色を背景に、季節外れの大雪が咲いたばかりの桜に積み重なる。

古い家庭用ビデオカメラでもなければ、映像は「いつ撮られたものか」は明示しない。2020年3月末に降った「季節外れの雪」と推定されるが、これも数千年の尺度で見るなら、遠い昔から飽きるほど反復されてきた光景だろう。

日本の国花と言われる「桜」が雪の重みに潰されて、そこに日本の国歌『君が代』が被せられていくその映像は、ある意味過剰に記号的である。しかしその記号は何を象徴しているのか?

あるいは、形骸化した記号は未だに何かを象徴し得るのだろうか?


それにしても、河瀬直美『東京2020オリンピック SIDE : A』は多難な映画である。

東京五輪自体が誘致の際の賄賂疑惑からコロナ下での強行開催、JOC経理部長の自殺、開会式直前の演出ディレクター降板にいたるまで、終始きな臭さを帯びていた。それに加え、本映画の公開直前には河瀬監督が撮影スタッフに「暴力」を振るっていたことを告発する記事が炎上を招き、非常に厳しい動員数で公開が始まった(週刊文春が出した例の記事はネットユーザーの野次馬根性を煽るようにしか見えず、好きではない)。

こうした周辺を取り巻く事象に加え、映画自体への評価も芳しくは見えない。個人には「記録映画として成立していない」という否定的な感想が多く観測されている。


それでもなお、私自身はこの映画を見なければ間違いなく後悔したと思う。何なら先月公開された『シン・ウルトラマン』より素晴らしい映画体験だった(勿論容易に比較できるものではないが)。

最初、この映画は坂道を転がり落ちるように開催された五輪を容赦なく斬っていくだけの映画だろうと私は低く見積もっていたが、この単調な予想は良い意味で裏切られることになる。

パンデミックに伴う延期から始まり、運営委員会の上層部による挨拶回り、「開催中止」のプラカードを掲げてデモ行進する群衆、防護服に身を包んだ人が行き来する病棟の映像が次々に切り替わりながら、大坂なおみによる聖火点火がフィナーレを飾る開催式の場面が映される。ここまでが恐らく「導入」パートで、次いで各競技、アスリート、関係者に焦点を当てた大量の取材映像が編集された「本編」が始まる。

語るべきはこの「本編」だと私は見ている。というのも、この本編こそ、他のどんなマスメディアより高く俯瞰して五輪を捉えようとする「メタメディア」として機能し、また、五輪という枠組を超えて各個人が人生の不条理にどう対面するかを描く映像として仕上がっているからである。

最初に挿入される「柔道」のパートでは、1964年の東京五輪で初めて競技種目に採用された柔道の無差別級で、日本人選手がオランダのアントン・ヘーシンクに敗れた事態を多くの関係者やマスメディアが「敗戦」として大々的に語ったこと、そしてその敗北を今日まで引き摺り、2020年の五輪を「リベンジ」の機会として策略している様が描かれる。

いかに日本の柔道界がこの半世紀悔しさを噛み締めてきたか、次の五輪で「敗戦」しないためにどのような努力を積み重ねているかを十分に映した後、その次のパートは打って変わって、難民選手団として戦禍から命からがら逃れてきた柔道選手の物語を描き始める。

この難民選手団は日本の柔道界とは全く異なる物語を生きている。日本の柔道界に欠けた巨視的な観点を身も蓋もなく見せつける性格の悪い(褒め言葉)編集である。

東京五輪の記録映画である以上、国内スポーツ界の発言は記録しなければいけない。しかし世界中の国が関わるイベントである以上、国際的な視点も見失ってはいけない。これら要求の板挟みになった結果として、前者を小さく見せる批判的な映像に仕上がっているのは不謹慎ながら笑ってしまう。

河瀬直美監督の性格の悪さ(褒め言葉)はこういうところに露出する。しかし、国際オリンピックの公式記録映画であるからに日本より海外の観客を主な観客として想定していたなら、「井の中の蛙大海を知らず」の諺に準じ、視野狭窄になっていた日本の観客を無数の物語が無秩序に蠢くグローバルレベルに引き摺り出したという点において、河瀬直美監督のスタンスはこの上なく正しい。

他にも、国籍をモンゴルに移しモンゴル代表選手として出場したが、イラン出身という出自からイスラエルとの国際紛争を避けるため不条理にも決勝前に棄権を要請されたサイード・モラエイ(彼は2022年現在、アゼルバイジャン代表としてプレイしている)、アメリカに未だ蔓延る白人至上主義に中指を立ててきた「活動家」としても注目を浴びるハンマー投げのグウェン・ベリー選手、ハーバード大学でニューロバイオロジーを研究しながら五輪の陸上トラックを駆ける陸上選手のガブリエル・トーマス、スケートボードの喜び、苦難の全てを「全部好き」という一言で肯定する四十住さくらなど、決して一本筋に回収されることのない無数の物語がカメラに収められる。

中でも、最も印象に残ったのが女子バスケのパートである。

このパートでは代表選手ではないにも関わらず、しかし決定的に重要な人物が二人描かれる。カナダ代表チームのキャプテンを務めるキム・ゴーシェの夫、日本代表を退き育児をしながら代表チームを見守る大崎佑圭の二名だ。

キム・ゴーシェ夫人の夫は、キム選手が練習や試合に励んでいる舞台裏で、生まれて間もない幼児の面倒を見ている。その裏には当初、コロナウイルスの蔓延で選手の家族帯同が原則禁止されたという事情がある。つまり、本来であればキム選手は夫と子どもの三人で東京に来ることはなかった。

しかし、母乳育児の最中であったことからキム選手は子どもをカナダに置いていくことに強く反対し、カナダ代表チームから賛同を得て五輪委員会に要望書を提出。最終的に夫、子どもと共に来日する許可を得た。

映画ではキム選手本人よりも彼女の夫とその育児の光景にかなり長尺が割かれているが、ここにはある明確な意図があるように思われてならない。それが大崎佑圭・元日本代表との対比であることは間違いないだろう。

大崎選手は2012年のロンドン、2016年のリオデジャネイロ五輪で代表を務め、2018年の第一子出産で休みを挟み、今回の2020年東京五輪では選手復帰してプレーする計画だった。しかし、コロナウイルスによる開催延期という予定外の事象が発生。無所属のまま練習を続ける負担と、練習や子育てを両立する身体的・経済的負担を見越して2021年の出場を断念した。

映画では、代表を引退した大崎が子育てに励みながら五輪に対する思いを吐露する姿、日本代表チームのプレーを応援する様子、そして同じ母親としてキム・ゴーシェと短い会話を交わす光景が映される。このパートは選手同士の対話が映されたほぼ唯一のパートであるが、そこには同じくかつて学生時代にバスケに打ち込んだ河瀬直美監督自身の思い入れもあれば、『玄牝 -げんぴん-』などで生や死をテーマとした映画を撮ってきた経歴や、少子化対策を謳いながら一向にまともな改善ができていないこの国への皮肉も込められているように見える。

五輪出場の機会を逃してしまった大崎選手と、キム選手の子どもを介抱する夫。これら周辺の物語を描くことで五輪が何に支えられていたのかを浮き彫りにした点において、河瀬直美の戦略は功を奏しているだろう。


これを書いている2022年6月26日、既に映画の後半にあたる「SIDE : B」が公開されている。

一年前の夏、世の中は何に熱狂していたのか、「五輪」とは一体何なのか、その裏にはいかなる物語が蠢いていたのか。「SIDE : A」は忘れ去られかけていた問いに新しい視野をもたらし、再び活性化させるために、この時代に作られるべき映画であったと私は思う。


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