見出し画像

『ブルシット・ジョブ』精読 / 銀行家は「社会的価値」を破壊しているか?

1.はじめに / 『ブルシット・ジョブ』に対する批判の少なさ

コロナ禍のまっただ中、2020年7月に日本の書店に現れたデヴィッド・グレーバー著『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』は、刊行されるやすぐにネットや新聞で続々と話題を呼び、瞬く間に時代を代表する一冊となった。私自身、ネットに溢れる絶賛の声に背中を押される形で本書を買うに至ったが、ネットのレビューを眺めていてその多くが大雑把な称賛であることに違和感もあった。

『ブルシット・ジョブ』が傑作であることには私も賛同する。誰もが苦しんでいるのに誰も本気で取り組もうとしなかった「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」という現象を、誰も成し得なかったスケールで分析した一冊であるからだ。だが、本書を読んで「ベーシックインカム制度を構築すればすべて解決する」と早合点する人がいたとすれば、そんな旨い話は無いだろうし、自分のブルシット・ジョブを代弁してくれたと喜んだとして、それではブルシット・ジョブで消耗した精神を一時回復させてまた元のブルシット・ジョブに送り返されるだけではないか、とも思う。

もちろん、本書が人類学や社会科学の古典になるだろうという意見に異論を唱えるつもりはない。しかしだからこそ、『ブルシット・ジョブ』をただ称賛するのではない建設的な批判が必要だろうと思い筆を取ることにした。


本論の最終目的は『ブルシット・ジョブ』の前向きな批判である。とはいえ、グレーバーの議論を大きく塗り替える説を新しく提出するわけではない。あくまで私に可能な小さな範囲での新たな知識の共有と検討を行いたい。もちろん「ブルシット・ジョブなど存在しない」といったそれこそブルシットな批判で終わらせるつもりもないことも付け加えておく。

本論でフォーカスするのは他のレビューでも多く引用されている「職業の社会的価値」について語られた次の箇所である。労働が生産する「価値」の測り方について検討するくだりで、6つの職業とそれが産出/破壊する「価値」が挙げられる。

 「多種多様な職業の社会的価値を実際にすべて測定しようと試みた経済学者は、ほとんどいない。おそらく、大半の経済学者はそうした考えを愚か者の所業と考えているだろう。しかし、そのようなことを試みてきたその少数の経済学者たちは、有用性と報酬のあいだには反転した関係があることを立証してきた。
(…中略…)
 その調査[イギリスのニューエコノミクス財団の調査]では、「社会的投資収益率分析」と呼ばれる方法を用いて、3つの高収入の職業と3つの定収入の職業、合計6つの代表的な職業が検証されている。その結果を要約すれば、つぎのようになる。

•シティの銀行家
年収約500万ポンド、1ポンドを稼ぐごとに推定7ポンドの社会的価値を破壊。
•広告担当役員
年収約50万ポンド、給与1ポンドを受け取るごとに推定11.50ポンドの社会的価値を破壊。
•税理士
年収約12万5000ポンド、給与1ポンドを受け取るごとに推定11.20ポンドの社会的価値を破壊。
•病院の清掃員
年収約1万3000ポンド(時給6.26ポンド)、給与1ポンドを受け取るごとに推定10ポンドの社会的価値を産出。
•リサイクル業に従事する労働者
年収約1万2500ポンド(時給6.10ポンド)、給与1ポンドを受け取るごとに12ポンドの社会的価値を産出。
•保育士
年収約1万1500ポンド、給与1ポンドを受け取るごとに推定7ポンドの社会的価値を産出。


 調査者たちは、こうした計算の常として、いくぶんかは主観的であること、この研究が収入規模上でトップとボトムにのみ集中しているということを認めている。(……)」
(『ブルシット・ジョブ』、p.274-276、太字引用者強調)

本引用箇所は多くの書評者により「給料が高いほど社会に害をもたらす」という逆説的な法則を簡潔に説明した一節として引用されがちだが、より正確には、銀行家の「価値」と保育士の「価値」を比較可能なもの、同列なものとして比較することの愚かさを糾弾する箇所の一つである。(「価値」と「生産」と「ケア」の関係については本記事では踏み込まないが、これを解説した第七章は『ブルシット・ジョブ』の一番シビれる章なので機会があれば読んで欲しい)

この引用箇所は『ブルシット・ジョブ』の核心部というわけではない。にもかかわらず私がこの箇所を取り上げるのには2つの理由がある。この話があまりにも簡潔過ぎるために誤読している人が多いのが一つ目の理由。そして二つ目の理由は、「そもそもどうやって特定の職業が作ったり破壊した価値を数値化したのか」という疑問が生じたことである。

上記の職業ごとの社会的価値はイギリスの「ニューエコノミクス財団」というシンクタンクが算出したものだが、このシンクタンクの調査とグレーバーの引用に関する批判点、本記事の結論を先に提示しておく。

 ・リーマンショック直後の調査のため、銀行家の評価が不適当ではないか。
・職業毎に異なる尺度が適用されているため、正しい比較とは認めがたい。
・全体として計算手順が不明瞭な箇所が多い。
・グレーバーの引用と原典の記述との間に差異がある。(税理士の場合はそれが特に大きい。)


さて、ある職業集団が産出した「社会的価値」なるものを計算できる人はあなたの周りに何人いるだろうか? おそらく99%の読者は「0人」と答えるだろう。義務教育でそのようなことを習った覚えはないだろうし、既知の知恵を用いてその方法をゼロから編み出すのも困難だからだ。

であれば次に何をすべきかは明らかである。この計算プロセスについて書かれた出典を読めばいいのだ。

2.社会的価値破壊はどのように計測されたか?

 2-1.ニューエコノミクス財団の調査について

上記引用部の出典となった文献は以下の報告書である。

"A Bit Rich: Calculating the real value to society of different professions", New Economics Foundation, 2009
https://b.3cdn.net/nefoundation/8c16eabdbadf83ca79_ojm6b0fzh.pdf

経済系シンクタンク・ニューエコノミクス財団による本報告書は、特定の職業のSROI(社会的投資対利益率、Social Return on Investment)を算出し、職業間の社会的価値と公平性について検討・提言した調査である。

本文献の中身に入る前に、まず「ニューエコノミクス財団(The New Economics Foundation)」とは何者かについて簡単に確認したい。

ニューエコノミクス財団は1986年にイギリスのロンドンで設立され、研究者と実務家から成る50~60名のメンバー、6~8つのチームで構成されたシンクタンクである。運営資金は寄付金でまかない、銀行改革、地方銀行、環境問題、ウェルビーイングなどを注力分野とし、経済学者のケインズとシューマッハーを理論的支柱としている。同じくロンドンに拠点を有し、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンを理論的支柱とするシンクタンク「アダム・スミス・インスティテュート(The Adam Smith Institute)」とは対照的なポジションにあるとされる。(*1)

*1:ニューエコノミクス財団の概要は以下の論文に基づき作成した。
Marcos Gonzalez Hernando (2018), "Two British think tanks after the global financial crisis: intellectual and institutional transformations" (Policy and Society, Volume 37, 2018 - Issue 2)
https://www.notion.so/a42987bb0a40401eae48ecaba0b4061d#f2b9784237454ed9b32378a8524ed9cc

とりわけケインズとシューマッハーを理論的支柱としている点に注目すると、ここから彼らの調査に社会自由主義的バイアスが掛かりうるだろうことは想像に難くない。もちろん、バイアスが掛かる可能性だけで「彼らの調査結果は当てにならない」と断言するのも早合点だ。

最初の問いに戻ろう。上の引用部ではシティの銀行家、広告担当役員、税理士、病院の清掃員、リサイクル業に従事する労働者、保育士という6つの職業が挙げられているが、どのようにして各々の職業の「社会的価値」を算出したのか? これらの職業ごとの計測方法は参考文献にまとめられてある。これを次の節から見ていこう。

(なお、本稿ではニューエコノミクス財団の調査報告書上の順番に従い、シティの銀行家→保育士→広告担当役員→病院の清掃員→税理士→リサイクル業に従事する労働者という順で見ていく)

 2-2.シティの銀行家(City banker)

・シティの銀行家
年収約500万ポンド、1ポンドを稼ぐごとに推定7ポンドの社会的価値を破壊。

イギリスの首都ロンドンの中心部には金融業のオフィスが集まったシティ・オブ・ロンドンという区画があり、「シティの銀行家」とはそこで働くバンカーを指す。このカテゴリには地方銀行のバンカーは含まれない。

このシティの銀行家が創出し、破壊する価値の構成要素として以下が挙げられている。

シティの銀行家が創出する価値(年間:471万ポンド/人)
1.英国経済のGVA(総付加価値)への貢献
2.税金による財務省への貢献
3.卸売部門における雇用創出

シティの銀行家が破壊する価値(年間:3340万ポンド/人)

1.金融危機(リーマンショック)による英国GDPおよび経済力への損失
2.金融危機に伴う公共財政へのマイナスの影響

シティの銀行家1人が年間で産出する社会的価値が471万ポンド、破壊する社会的価値が3340万ポンドで、つまり「1ポンドを稼ぐごとに推定7ポンドの社会的価値を破壊」するという。

この調査がなされた年が2009年であるため、2007年に始まるリーマンショックが考慮されていることに注意が必要である。実際、リーマンショックの主原因は金融業界であると言われ、私もそれを否定しない。しかしこの調査では「銀行家が存在しなければ金融危機は起こらなかった」という前提が立てられており、この前提は極端ではないかと疑問が残る。

Our model assumes that the financial crisis and recession would not have happened were it not for highly paid City bankers and traders engaging in extremely risky, opaque and complex transactions.
(我々のモデルは、ハイリスクで不透明かつ複雑な取引に従事する高給取りのシティ銀行家やトレーダーが存在しなければ金融危機と不況は起こらなかったと仮定している。)

なお、本調査のようにシティの銀行家を対象としたSROI(社会的投資対利益率)の追跡調査は、2009年から今日2021年の間に新しくなされてはいない。現時点ではコロナショックという別の事象を考慮に入れなければならないが、それを踏まえても、より中立にシティの銀行家が創出・破壊した社会的価値を把握するためには継続的な調査の実施が行われるべきだと考えられる。

また、これは他の職業でも同様だが、「シティの銀行家」が存在しなくなることで社会に損害/利益が生じる可能性、すなわちGDPが増減する可能性を検討していない点も本調査の欠陥だろう。

リーマンショックの影響が含まれる2009年のデータだけでは今少し信憑性に欠けると思わざるを得ない。

 2−3.保育士(Nursery worker)

・保育士
年収約1万1500ポンド、給与1ポンドを受け取るごとに推定7ポンドの社会的価値を産出。

コロナ禍の中で、人と接することが避けて通れない「ケアワーカー」の重要性が毎日のように喧伝されていたが、保育士もその代表であることに異論は少なかろう。『ブルシット・ジョブ』でもケアワーカー含めエッセンシャルワーカーの「生産性」について極めてクリティカルな議論が展開されている。それはさておき、ニューエコノミクス財団の調査では彼らの「生産」する「価値」はどのように算出されているのか。

保育士が関わる社会的価値は以下の要素で構成されるという。

1.保育士1人が増やす労働可能人口(保育士1人あたり子ども5人を受け入れると仮定して)
2.保育士自身の給料とそれによる消費行為
3.早期教育が子どもの将来に与えるポジティブな影響

保育士1人のおかげで働く時間を確保できる労働者らの稼ぎが年間で計78,347ポンド、保育士自身の給与が12,500ポンド(*2)、子どもの将来に与えるポジティブな影響は計算が困難なため加算せず。

*2:グレーバーの著作内で「1万1500ポンド」と書かれているのはおそらく著者による引用ミス。

よって保育士は12,500ポンドを受け取るごとに78,347+12,500=90,847ポンドの価値を産出する、ゆえに「給与1ポンドを受け取るごとに推定7ポンドの社会的価値を産出」になるという。

さて、保育士の社会的価値の計算の是非はともかく、最初に挙げられた「シティの銀行家」と計算方法が著しく異なることに気が付いただろうか。そもそもその職業のフィールドや目的が異なる時点で「社会的価値」なるものを同じ方法で比較検討することは無理難題であるが、経済学というものはそうした無理難題に取り組むために生まれ、発展してきた学問分野と私は捉えている。だから銀行家と保育士の比較に無理が生じることは避けられないと認めるが、しかし、保育士の場合は自身の給料を「価値の産出」として扱い、銀行家の場合はその給料について加味しない(リーマンショック下で例年より高いボーナスがばら撒かれたとは言え)という区別は、公平性を担保すべき科学的分析において傷となるのではないか。

実際に保育士がいなければ今の社会は機能停止し、銀行家も十全に働けなくなるだろうことは想像に容易い(銀行家の業務の大半が存在意義のない「ブルシット・ジョブ」であれば話は別だが)。しかし、そうであればなおさら保育士の産出する「価値」は銀行家のそれと比較不可能なものとして計算する必要があろう。

 2-4. 広告担当役員(Advertising executive)

•広告担当役員
年収約50万ポンド、給与1ポンドを受け取るごとに推定11.50ポンドの社会的価値を破壊。

日本の特にインターネットでは、電通等を筆頭とする大手広告代理店が過酷な労働環境を作り出してきた悪者としてやり玉に上げられる発言をしばしば目にする。広告代理店やコピーライターとして活躍してきた方々が自身の仕事を自虐的に腐す発言もよく耳にする。

私自身、一企業のマーケティング業務の中でこの仕事に関わることがあったが、広告がどれだけの売上効果をもたらしたかを数値化することは非常に難しく、同時に広告がもたらす「価値破壊」を数値化することの難しさも理解できる。

今読んでいる報告書は広告が社会にもたらす価値、損害というものを数値化しようとしているが、その正否はともかく、数値化し難いものを数値化するという難題に取り組むすべての人にとって参考になる視座を提供してくれるものと私は捉えている。他の職業と比べ、この広告担当役員の分析は色々な意味で非常に勉強になった。時間があればぜひ全文読んで欲しい。

さて、広告担当役員が産出/破壊する価値は以下の要素で計算される。

破壊する価値=社会的コスト(1人あたり120万ポンド)
・広告が扇動する過剰消費(overconsumption)による社会・環境コスト
・広告そのものに掛かるコスト

「過剰消費による社会・環境コスト」は「環境負荷、肥満、メンタルヘルス、負債」の4カテゴリに分類され、それぞれの合計から試算されている。

一方、産出される価値は以下の要素から成る。

産出される価値(1人あたり約37万ポンド)
1.広告業界における17000人の雇用と彼らの年間給与30,000ポンド(他業界で働いていた可能性を鑑みて50%のみ算入)
2.企業の納税額。利益の28%が納税されたと推定。

ここから「給与1ポンドを受け取るごとに推定11.50ポンドの社会的価値を破壊」という結論になるが、いくつか要注意事項がある。

まず、単純計算で「120万ポンドの価値破壊÷37万ポンドの価値産出≒3.24」であり、「給与1ポンドを受け取るごとに推定11.50ポンドの社会的価値を破壊」という記述と一致しない。これはおそらく社会的コストの数字に別の要素を加える必要があるためだと考えられるが、何の要素を加えるべきかについて元の文献に明確な記述が無いため何とも判断し難い。

それから、この文献では「every £1 of positive value, £11.50 of negative value is generated(1ポンドのポジティブな価値に対し、11.5ポンドの負の価値が生成される)」という記述がなされており、これは社会的価値の産出と破壊の比率を表す表現である。しかしデヴィッド・グレーバーの記述内では「£11.50 of social value destroyed per £1 paid(給与1ポンドを受け取るごとに推定11.50ポンドの社会的価値を破壊)」という風にパラフレーズされていて、社会的価値と給与をイコールなものとして扱ってしまっていることが分かる。

そもそもニューエコノミクス財団のレポートにも計算過程が不明確という問題が残っているが、それをパラフレーズして引用したグレーバーの側にも別の問題があることは否めない(もちろん再三強調するが、本引用部は『ブルシット・ジョブ』の細部に過ぎず、『ブルシット・ジョブ』全体が信頼できないというわけではない)。


ここで伝えたいことはニューエコノミクス財団の調査の不明瞭さではなく、(私も含めて)大抵の人には不可能な計算をするにおいては往々にして誤謬が入り込むということだ。しかしだからといって誤謬を仕方ないものとして大目に見るわけにはいかない。

分かりやすい話には裏があり、この経験則は社会科学にも当てはまる。そのことに注意しなければ足元を掬われることになるだろう。それも特に、広告業が相手なのであれば。

 2-5. 病院の清掃員(Hospital cleaner)

・病院の清掃員
年収約1万3000ポンド(時給6.26ポンド)、給与1ポンドを受け取るごとに推定10ポンドの社会的価値を産出。

病院の清掃員が産出する価値は、下記の「英国病院における清掃強化の効果測定」という論文をベースに計算される。

Stephanie J, Dancer S, White L, Lamb J, Girvan E K, Robertson C (2009), "Measuring the effect of enhanced cleaning in a UK hospital: a prospective cross-over study" (British Medical Journal, 2009 June 8)
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2700808/

曰く、病院の清掃員が産出する社会的価値は次のように計算される。

1.清掃員1人は、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)の感染者を5~9人減らす。
2.MRSAの院内手術部位感染(SSI)1件あたりの負担コストは9000ポンド。
3.以上から、5~9人×9000ポンド=45,000~81,000ポンドの費用を1年あたり節約できる。この中央値である63,000ポンドを社会的価値の一要素とする。
4.患者1人が1年長生きすることで生じる価値は63,000ポンドと仮定される。清掃員1名が年間に救う命は0以上1未満である。
5.病院が機能しない場合に生じると推定される死亡数は127,273件。
6.イギリスの病院の清掃員は27,226名。
7.清掃員1名の社会的価値は128,344ポンド(63,000ポンド+)。
8.病院の清掃員は賃金1ポンドあたり約10ポンドの社会的価値を産出

人の寿命を数値化するプロセスは読んでいて生命倫理的な疑問は湧いてくるものの、不謹慎ながら大変面白く、ここで引かれている参考文献をさらに掘り進めていくのも良い勉強になるだろう。しかし、現在見ている文献の当該箇所の問題点は別のところにあるように見える。

上記の計算手順の7番目で「?」と記したが、清掃員1名の社会的価値=128,344ポンドと算出した計算プロセスがここでもまた不明確であり、それゆえ正否の検討を行うことができない。

もちろん、MRSAの院内感染者数を1年で少なくとも5人減らすことに貢献し、それにより最低45,000ポンドの社会的価値を産出していることが確かだとすれば、病院の清掃員はシティの銀行家よりも「社会的価値の産出」に貢献していると言えるだろう。

 2-6. 税理士(Tax accountant)

 •税理士
年収約12万5000ポンド、給与1ポンドを受け取るごとに推定11.20ポンドの社会的価値を破壊。

まず、この項目については出典の前に引用者であるグレーバーが単純な誤謬を犯している可能性を指摘しなければならない。

1ポンドあたりの社会的価値の破壊額が「11.20ポンド」と書かれているが、グレーバーが引用した元の文献では破壊額の数値は「47ポンド」と算出されている。

For a salary of between £75,000 and £200,000 tax accountants destroy £47 of value for every pound in value they generate.
(税理士の給与レンジは75,000~200,000ポンドだが、1ポンドの社会的価値の産出にあたり47ポンドの価値を破壊している。)

当然ながらニューエコノミクス財団の調査や計算に誤りの可能性はあるとはいえ、引用の過程で元の記述を故意であれ過失であれ歪曲することは学者として論外と見做されるものだ。本来なら書籍の編集者や校正担当が確認し、指摘すべきところである。

引用間違いの指摘は本論の趣旨から外れるのでここまでとし、税理士が産出/破壊する社会的価値の計算手順を確認しよう。ここの計算は最も単純である。

1.脱税による財務省の機会費用を約500億ポンドと算定。
2.富裕層向けに節税の手助けをしている税理士は14000名。
3.以上より、税理士1名につき年間推定360万ポンドの脱税が発生(500億ポンド÷税理士14000名)。
4.税理士が産出する社会的価値は、税理士の平均年収(75,000ポンド)を代用する。
5.税理士1人あたりが75,000ポンドの社会的価値を産出することで、3,600,000ポンドの社会的価値が破壊される。すなわち、給与1ポンドを受け取るごとに推定47ポンド(正確には48ポンド)の価値が破壊される

脱税額を給与報酬で割るだけである。

ここまで来れば、税理士が産出する社会的価値を彼ら自身の給与以外に認めないことを疑問に思う人は少なくないだろう。税理士がいなければどうなるかを思考実験してみよう。法人の申告納税のミスやトラブルが増加し、税務調査の件数が爆発的に増加し、1件あたりに割ける労力が低下し、結果的に脱税総額は増える――。

ニューエコノミクス財団の調査は、税理士がどれだけの社会的損失をもたらしているかを的確にまとめているが、税理士がいなくなることで社会に及ぼす影響ということに関しては検討すべき要素を多数見落としているのではないだろうか。仮に税理士がいなくなることで脱税額が増えるのであれば税理士の存在は脱税を減らしていると考えることができ、結果として本調査の結果とは真逆の結論が導き出されるからだ。

ゆえに、税理士に関しては検討項目を増やした今後の再調査が期待される。

 2-7. リサイクル業に従事する労働者(Waste recycling workers)

 ・リサイクル業に従事する労働者
年収約1万2500ポンド(時給6.10ポンド)、給与1ポンドを受け取るごとに12ポンドの社会的価値を産出。

リサイクル業に従事する労働者が産出する社会的価値の計算は次のようになされている。

1.炭素排出量の減少、GDPへの貢献を鑑みて、リサイクル業労働者1人あたりが産出する価値は約151,151ポンド。
2.上記に資源効率性を加算すると171,941ポンドに上昇。
3.リサイクル業の平均賃金は13,650ポンド。
4.よって、給与1ポンドを受け取るごとに12ポンドの社会的価値を産出

リサイクル業と聞くとポジティブなイメージがあり、この算出結果もそのイメージを助長するものとなっているが、この項目にも問題点がある。この業界の労働者数が記載されていないのである。

おそらく本レポートが依拠する参考文献をあたればその数値が書かれていると想定されるが、参考文献を一通り確認したところ、目的の数値とは無関係な文献かリンク切れの文献しかなかった。

この項目に関しては、この文献を読む限り残念ながら正否を判断することができない。一応、検討だけは試みたということを書き残しておきたい。

3.まとめ

冒頭にも書いたが、ここまで挙げてきた疑問点、不明点を以下にまとめる。

 ・リーマンショック直後の調査のため、銀行家の評価が不適当ではないか。
・職業毎に異なる尺度が適用されているため、正しい比較とは認めがたい。
・全体として計算手順が不明瞭な箇所が多い。
・グレーバーの引用と原典の記述との間に差異がある。(税理士の場合はそれが特に大きい。)

『ブルシット・ジョブ』というよりもっぱらニューエコノミクス財団による報告書の批判になってしまったが、職業の「社会的価値」というものを検討するための方法が実際はどんなものであるか、それが読者の皆様に上手く伝わっていたら幸いである。

グレーバーの『ブルシット・ジョブ』では、「価値(value)」と「諸価値(values)」という二つの概念を並べて、歴史の中で「価値」と「諸価値」が混同して扱われてきた経緯を詳しく取り扱っている。価値というものは大抵の場合同じ尺度で比べられないもの、すなわち複数形の「価値(values)」である。「生産性」という謎めいた概念で人々の多種多様な営みを「価値」という一本の物差しで比較するから不自然なことになる。

ゆえに職業ごとの価値を社会的価値という一本の尺度で測ろうとするニューエコノミクス財団の調査は、事の始めから失敗が運命づけられていた試みだったと言える。

しかし、将棋というゲームにトランプのルールを押し込むことができないように、「生産性」なるゲームに別の尺度を持ち込むことは対話の成立を阻害すると言える。それゆえ、「生産性」という尺度を「社会的価値」に置き換え、あえて尺度が一本しかないゲームに参入し、職業間の格差や収入にまつわる不条理さを浮き彫りにしたという点で、ニューエコノミクス財団の調査方法は正攻法だったのではないかと私は考える。


グレーバー自身、「多種多様な職業の社会的価値を実際にすべて測定しようと試みた経済学者は、ほとんどいない。おそらく、大半の経済学者はそうした考えを愚か者の所業と考えているだろう」と書いているように、この試みの困難さを理解しながら彼が引用したことは自明だろう。

しかし、同じルールに則って彼らの調査結果に反論する調査も新たになされることはなく、結果として、誇大広告が如く「金持ちが社会に損害を与えながら富を独占している」という分かりやすい物語を提示した本調査は『ブルシット・ジョブ』を通じて大勢の耳目を集めるに至った。

『ブルシット・ジョブ』が刊行されるわずか1年前の2019年、このような分かりやすい物語に引き寄せられる人間の本能を「ドラマチックな本能」と的確に呼び表した『ファクトフルネス』という本がベストセラーになった。分かりやすい物語に注目してしまう傾向は確かに本能的なものであり、軽い病気のように薬を摂取すれば治るものではない。だからこそ、距離を置いて検討する必要がある。


なお、2009年の報告書で対象となった職業と同じ職業を対象とした追跡調査は2021年の今日まで行われていないようである。政治的ツールとしての調査というより、公平性と社会科学的な正しさにより一層裏付けられた調査が行われることを引き続き注目していきたい。

■参考文献

・デヴィッド・グレーバー(酒井隆史, 芳賀達彦, 森田和樹訳)『ブルシット・ジョブ : クソどうでもいい仕事の理論』、岩波書店、2020年
・"A Bit Rich: Calculating the real value to society of different professions", New Economics Foundation, 2009
https://b.3cdn.net/nefoundation/8c16eabdbadf83ca79_ojm6b0fzh.pdf
・Marcos Gonzalez Hernando (2018), "Two British think tanks after the global financial crisis: intellectual and institutional transformations" (Policy and Society, Volume 37, 2018 - Issue 2)
https://www.notion.so/a42987bb0a40401eae48ecaba0b4061d#f2b9784237454ed9b32378a8524ed9cc
・Stephanie J, Dancer S, White L, Lamb J, Girvan E K, Robertson C (2009), "Measuring the effect of enhanced cleaning in a UK hospital: a prospective cross-over study" (British Medical Journal, 2009 June 8) https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2700808/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?