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今更ながら書く仕事の責任の重さに押しつぶされそうになっている

内職でこの仕事を始め、メディアに掲載される記事なども書かせて頂くようになると、記事に対するバッシング的なコメントもつくようになった。

(バッシングそのものについての私の気持ちはこちら↓をご覧ください。)

以上のエントリーに書いたように、バッシングを受けることを気にしていたらこの仕事をやってられないので、ある程度腹をくくってはいる。

しかし、かなりの時間ファクトチェックをしながら調べ上げて書いた記事でも、「間違っている」「おかしい」というコメントがつくと、やはり心にぐさりと刺さってしまう。自分のその物事への解釈はこれでよかったのだろうか? と不安になるのだ。

私が記事を書く際は、私が見て、聞いて、徹底的に調べたことや、実際に体験したことをもとに、最大限の注意を払い責任をもって書いているつもりだ。

もちろんその内容に嘘偽りなどはないよう細心の注意も払っている。だからこそ、記事の元となる情報の正誤確認に人の倍も3倍もかかり、執筆にも時間がかかるのだ。

その一方で、私の記事への批判もあながち誤りとは言えない。物事にはいろいろな側面があり正解がひとつではないからだ。

物事の真理を追究する研究者でさえも、限られた時間の中で何から何まで完璧に調べ上げることは困難であろう。また、何度も校正を重ねた末に満を持して出した記事でも、完全に全ての面をカバーすることは不可能だ。

どの記事も、書き手自身が調べうる範囲で入手した情報をベースに書いている以上、そこに書き手が知らない側面があるのは当然だ。どう考えても全ての人が正しいと納得する記事など書けるわけがない。

そうは言っても、自分が書いた記事が多くの人の目に触れれば触れるほど、その記事が社会に及ぼすことの大きさと、書いた自分にのしかかる責任の重さをひしひしと感じる。

特に、企業という大きな庇護のもとに守られていないフリーで記事を書いている立場では、何か起こった時のリスクはとてつもなく大きなものとなるだろうと思うと正直身震いするほど怖い。

そう考えると、今更ながらなんと重い責任を伴う大変な仕事に就いてしまったのだろうと思う。そしてますます記事を書く際のファクトチェックに慎重とならざるを得ないのだ。

そのようなわけで、私は今、仕事をたくさん受注できない状況にある。なぜならひとつひとつの記事に対する責任の重さに押しつぶされそうになりながら、やっとの思いで記事を書いているからだ。

例えるなら、まるで終わりのない泥の海を無理やりわたっているようなものだ。記事を書けば書くほど、書くことに慣れれば慣れるほど、重いプレッシャーがどんどんのしかかっていくので、たまらなく辛くなることがある。

同業者の方は一体どうやってそのようなプレッシャーの重さを乗り越えているのだろう? どうして1日に何記事も書ける人がいるのだろう? その答えをぜひ知りたいものだ。

……とは思うが、結局のところこの仕事を続ける限り、その答えは自分で見つけるしかない事はわかっている。そして、この仕事の職歴が長くなればなるほど、書くことの責任の重さがますます重くなっていく現象と戦い続けていかねばならないのだろう。

言葉は時に人を殺す刃となる。百戦錬磨の記者たちがひしめく週刊誌などはその最たるものだ。しかし、そのような記事を書かねば雑誌の売り上げが上がらず会社の存亡に関わるからこそそうせざるを得ないのだろう。

私はお金のためとはいえ、できれば人を奈落の底に落とす記事は書きたくない。嘘で塗り固めた記事もだ。それは週刊誌の記者も同じだと思う。誰がそんな記事を書きたいものか。

でも、生活が懸かっていれば書かざるを得ない事もあるかもしれない。幸い私がこの仕事で全てを背負っていないからこそ、そんなきれいごとを言っていられるのだろう。

それでもなお、私は嘘を書きたくない。可能な限り間違いを排除しながら記事を書いていきたいと思っている。それが弱小内職ライターと揶揄される私の矜持だ。

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