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『歌壇』2021年7月号(3)

⑫中西亮太「歌人斎藤史はこの地で生まれた」〈そこで私は『熊本歌話会雑誌』の原本に加えて同時代の他の雑誌や新聞、後年の各種関係資料も参照し、史の熊本時代の生活と文学活動とをより詳しく再現するつもりだ。〉私の好きな「資料をしっかり調べる」系の評論ですね!ワクワクする。

〈瀏は職業軍人にしては堅苦しくなく、世話焼きの人情家で、人を引き付ける人物だったようだ。〉人物像は常に多面的だから、色々な描き方がある。これもまた一つの斎藤瀏像だろう。

 今回疑問だったのは、写真のキャプションに〈となりの男性からやや離れて立っている史の姿が印象的だ。おそらく撮影直前まで手島のそばにいたのだが、洋装のため敷物の上に座る訳にいかず、後ろに下がったのだろう〉とある。写真に興味を引かれたが、洋装だとなぜ敷物に座れないの?と思ったりした。

幸福じゃありませんように 俺じゃない人を選んだ君の未来が 鈴掛真 特集「星に願いを」中の一首。これは「星に呪いを」だな。でもその呪いに共感。相手の幸せを祈るのなんて偽善でしかない。相手がどうでもよくなったら呪いも手放せる。それまでは呪っている自分が不幸でも呪う。

⑭沖ななも「百人百樹」幾年を経て截然と見え来たる過誤ぞ楝(あふち)は花過ぎんとす 尾崎左永子〈はっきりと見えてきた過誤。それが何だったのかは分からないが、あんがい人生は過ぎ去ってから誤りだったと分かることが多いものだ。〉花の時期を過ぎた楝と響き合う。納得する読み。

⑮久々湊盈子「平成に逝きし歌びとたち安永蕗子」〈練達の歌人と言えど長い短歌人生においてはある種のパターン化を免れないものなのだと思った。〉このあと久々湊は安永の歌のパターンを指摘する。このシリーズでこれだけはっきり問題点を指摘したのは久々湊が初めてではないか。

 ただ褒めるばかりでは、短歌という文芸を前に進めるのには却ってマイナスだろう。〈豊饒な語彙の海に溺れないように心して今後も安永蕗子を読み続けていきたい。〉語彙の華やかさは何より目に付きやすく、欠点を覆ってしまうことも多い。安永だけでなく他の作者に対しても言えることだろう。

⑯久々湊盈子「安永蕗子三十首」今までこのシリーズでは評論の中で読み解かれた歌が三十首挙げられていた。しかし今回は全く被っていないのだ。これも初めてではないか。二倍の歌が楽しめると同時に、安永の歌は結構難解なので、久々湊の読みが聞きたかった気もする。

なけなしのまなこ二つに視る牡丹あはれ夢など見るいとまなし 安永蕗子 自分の持っている、たった二つの目で牡丹の花を見ている。そういう実在の物を見るのが自分にできる最大限のことで、夢なんか見ている暇は無い、現実で手一杯なのだ、と読んだ。「なけなしのまなこ」に実感があると思った。

萱草の彼方流るる夏の川見えぬ仏が矢のごとくゆく 安永蕗子 下句が衝撃的。仏は川を流れてゆくのか、川の上の空中を飛んでゆくのか、川に向かってゆくのか。仏は単数か複数か。「見えぬ」仏だから、結局何も見えて無い、何も無いということだろうか。読者である自分まで幻視におそわれそうだ。

2021.8.6.~7.Twitterより編集再掲