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『短歌往来』2022年2月号

①田中教子「短歌と俳句」〈短歌は、単に言葉を極限まで削ぎ落とせば良いというのではなく、言葉を駆使して意味を削ぎ落とす(焦点化する)ものであり、同時に音楽性が重要なのである。〉短歌の繰り返し表現についてとても納得のいく論。例が分かりやすかった。

②寺島博子「意味と音律の空間」〈妙子の歌が精緻に練り上げられた美しい建造物のようにも思われるのは、自らの志向したところなのだろう。妙子は言葉の意味と音律による一首の空間を意識していたのではないか。恐らく建築の知識を有するゆえに空間の意味するところ、その大切さを深く認識していたのであろう。そして、歌における意味と欠落も含めた音の響きに敏感に反応し(…)〉葛原妙子を中心に短歌の中に現れる「空間」について論じている。葛原に建築家への志向があったとは知らなかった。

〈欠落もまた能動的な働きかけをしているということであり、文字数の欠落によってつくり出される音律があると捉えるべきなのである。〉葛原の欠字、欠落についてかなり説得力のある論。定型あればこその欠落だから、定型意識がゆるむと欠落もまた効果を減じるのだと思う。

われを呼ぶ声の無ければ闇の中へ駆け出でて虎になることもなし 田口綾子 寅年生れの歌人特集より。物語や伝説等の虎を背景にした連作。この歌は中島敦「山月記」が下敷き。李徴を呼んだのは誰か。主体は李徴のように呼ばれることはないが、それにやや不満なのかもしれない。

自分が死んだことにはいつごろ気づくのか鈴懸根ごと堀りあげられて 林和清  街路樹の鈴懸が傷んだのか、道路拡張のためか、根ごと掘りあげられて道路脇に置かれている。木にはまだ青々とした葉がある。死んだことに気づいていない。主体は自分を鈴懸と重ねているのだろう。

私が吐く声の形を見てほしい一度も惜しんだことなき声の 林和清  声は本来目に見えないものだ。それを見てほしいと望む。一度も出すことを惜しまなかった声だ。声は主体の生命力そのものなのだ。願望の呼びかけが内容に合っている。声を「吐く」という動詞の使い方も特徴的だ。

甦る記憶のごとく枯れ枝が流れてゆきぬ視野の外へと 棚木恒寿 川を枯れ枝が流れて来て、主体の視野に入り、その後下流へ流れて行って視野から外れて行った。それだけのことだが、初句二句の喩が全体を統べていて、読者も、圧倒的な記憶が止めようもなく甦った感を覚える。

⑦「オメデトウ 寅年生れの歌人」 ヒレうろこ鳥の体毛こころとろかせる愛撫の記憶沈めて 川本千栄  この人も〇年生れ…と毎年楽しみな特集。今年は私も寅年ということで12首掲載していただきました。次回の寅年もぜひ元気に参加したいものです。

⑧勝又浩「『賀茂保憲女集』のこと」 〈あさましきことは夢かとおどろけど現(うつつ)は覚めぬものにぞありける  この現実こそ覚めない夢なのだ(…)こうした批評精神、強い自意識が『賀茂保憲女集』の特色である。〉紫式部に先立つ時代の人だが、とても現代的な感性だ。ただ古典の歌なので、「あさまし」は「意外で驚きあきれる感じ」ぐらいで取った方が原義に近いのだろうな。そうすると、単純な歌になってしまう。現代人としては現代語の「さもしい、心がいやしい」で取りたくなる。その方が「現実は夢のようには覚めない」ことに絶望感が出て、いいのだが。

⑨恩田英明「玉城徹を読む」〈徹は『藜の露』に次の様に書き残している。 「わたしは、まずなによりも第一に精確さを尊びたい。それは写生の精確ではない。写生は精確さを犠牲にしていると、わたしは考えている。」〉玉城徹は、精確さとは、「感じ方」の、「言葉」の、「思想」の精確さだと続けている。「写生は精確さを犠牲にしてる」って解釈が色々ありそうだ。見たものを写すことに意識が引きずられて、自分の感性がお留守になるということか?この文の引用で今月号は終わっている。来月号が楽しみだ。

2022.3.7.~9. Twitterより編集再掲