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『ねむらない樹』vol.8 2022.2.

眼を閉じる力なく眠る犬に沿う川より短いわたしの身体 椛沢知世 笹井宏之賞大賞受賞おめでとうございます!  死期の近い犬に沿う主体。寄り添うように寝る時川を連想するが身体は川より勿論短い。その短さの自覚に何もしてやれない不全感がある。

秋はまた本を開いてみるごとくわたしを開き始めてしまう 水科あき わたしが秋の始まりに反応する、ではなく、秋がわたしを開き始めると把握する。本の比喩が効いている。風がページをめくるイメージ。百人一首の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども~」を思い出した。最後の「~しまう」が、そうはしたくないのに、という屈託のある感じ。古歌よりも心理の動きは微妙だ。

風邪ひきの身体のようなまひるまの途方もなさを抱えて歩く 砂場 「まひるまの途方もなさ」がひと固まりで、それを「風邪ひきの身体のような」という比喩が修飾しているのだろう。自分の身体を持て余す感覚が、回りの環境をも浸食している。まひるま、に現実味がある。

台風の夜の豆球 いつだって分かってほしいばっかりだった 小川リ 初句二句は頼りない、心細いものの象徴だろう。実景かも知れない。それを見つめながら、自分の今までの心境を反芻する。振り返っても、分かってほしい思いが無くなるわけではない。今も分かってほしいのだ。

⑤「選考座談会」神野紗季〈短歌は「私」という自我の磁場がすごく強いと感じました。「私」が閉じればどこまでも閉じていくし、逆に開く意思があれば心と外部がちゃんと溶け合っていく。いかにコントロールできない部分を見せるかが重要なポイントなのかなと思いました。〉
    毎回この選考座談会は歌人以外のゲストが入っていて、ゲストの発言は普段短歌に慣れている者には新鮮だ。今回の神野紗季(俳人)のこの発言も興味深かった。いかにコントロールできない部分を見せるか、というところ。

⑥「選考座談会」今回この賞で驚いたのは、前回個人賞を取った作者が、また個人賞を受賞していたこと。だが、他の新人賞の次席や佳作にあたるのだと考えれば、大賞を取るための再チャレンジはあり得ることだ。私の中でこの個人賞の位置付けがあやふやだったから驚いたのだろう。

木をみつつ森の最後の一本の木とすれちがふまでが現在 渡辺松男 木の一本一本を見つめつつ、森を抜けて行く。まるで人間とすれ違うように最後の一本の木とすれ違う。そこまでの幅のある時間を現在と捉えている。時間を体感として把握しているのだ。

俄雨あれがわたしでありしよとべつのわたしが晴れておもひぬ 渡辺松男 晴れた私が、俄雨を見てあれこそ私だと思う。天気というか環境そのものが自分だという大きな把握。河野裕子の〈われ〉の境界線が曖昧な歌と共通点を感じる。どちらも擬人法やなりかわりなどとは違う。

⑨「渡辺松男メールインタビュー」〈脳といいますか、こころの状態に無ということはないとわかりました。どんなにぼんやりしていても、なにかが浮かんできては消えていきます。意識のながれではないですけど、浮かんでくるものを歌のかたちでメモしておこうとおもいました。〉
 ぼんやりしていても脳はいつも何かを考えているというのはその通りだ。それを歌の形にできるかどうかは個人差があるだろうが。思わず読みふけってしまったインタビュー。馬場あき子・岩田正との師弟関係のエピソードも良かった。

⑩大井学「直観の証明」〈より根源的に渡辺松男の天才性を発揮し得るのは「歌による直観的な世界把握」なのだと思う。それは単に歌の語り手としての「わたし」が或る世界観を提示しているというものではなく、読者の「わたし」にも、理性的な理解の手続きを超えて、一瞬にして新しい世界が見える、という詩的体験を与えてくれるものだ。〉魅力的な文。直観的な世界把握を読者と共有できる才能は稀だと思いつつ、そうでなければ短歌に限らず詩を詠み読む意味が無いようにも思う。渡辺の質量共に秀でた教養が、知的基礎体力として飛躍を可能するというのもある。

⑪犬養楓「第六波、救急救命の前線で」〈普段の生活では、絶対に会わなければいけない理由など存在しない。会わない状況が続けば、もともとの会う理由などすぐ曖昧模糊になる。しかし、会えない状況が続くからこそ、ありがとうを言いに会いに行くことが大事なのである。〉
 コロナ禍の医療の最前線で戦っている著者だけにその言葉は重い。会わなければ会わないで済む、という状況が今後、例えばコロナ後、どう変わっていくのだろうか。私たちの意識の問題なのだと思う。

拝まれつつ餡パンの黄を渡されて許されるより許すのが楽 立花開 上句は前の歌から続く内容。下句に惹かれた。許す許さないと能動的に考えると個人の問題だが、許される許されないと受動的に考えると他人との問題だ。自分の気持ちだけで決せられる方が楽というのは本当だ。

降り始めてより無数の目はひらく水や地面の底方(そこい)に向けて 飯田彩乃 この目は何を指すのだろう。雨を見ている人々の目だろうか。それよりも自然界に存在する何かの目と取りたいと思った。雨の粒が、地面に向けた目として降っているようにも感じた。

2022.7.2~3.Twitterより編集再掲