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ベトナムの君へ

先日、ベトナムへエアメールを送った。

厚紙の間に桜の写真が加工された、
一目ぼれした便箋だった。

私はこれに、とある人物の姿を思い浮かべながら
文章をしたためた。




私は友達が少ない。

一番古い記憶である幼稚園時代のときから現在まで、友達だと自信を持って言える人は片手に数えられるくらいだった。

小学校も中学校も高校も大学も、いつも誰かに囲まれ教室中にワイワイキャッキャとした声が響き渡る同級生がキラキラして見えていた。とても羨ましかった。そういう人ってTwitterやFacebook(それより当時はmixiの全盛期だったな)でもフォロワーが多くて、自分との差に歴然としたものだった。

とにかく、友達が多い人が本当に羨ましかった。

そして、つい最近まで、自分には何で友達が少ないのかと悩んでいたが、
約30年生きていてやっと見つけた答えがある。

それは、

私は人と関わるのを自ら避けてきたから。

例えば学生のとき。校内で、廊下を歩いていて向こうから同級生が来るのに気づいたら、「私はあなたの存在に気づきませんでしたよ」という雰囲気を醸し出して素早く角を曲がる。
大人になってからも同じだ。職場の休憩時間も一人になれる場所を探している。

ずっと、そうやって一人を好んで生きてきた。


幼稚園の母親の集まりの後には、必ず切ない気持ちになる。
ママたちの輪に入れないからだ。

先日も例のごとく落ち込んで帰宅したら、郵便受けに1通のハガキが入っていた。

差出人の欄には、私の唯一の友達の名前が書かれていた。


彼女は高校の同級生。
同じく18才で進学のために上京し、特に社会人になってからは月に数回遊ぶ仲だった。
何でも話せるし、喜怒哀楽を共有することができる。
居心地が良くて、これが友達というんだろうな、と思う。

彼女は数年前からご主人の仕事の都合でベトナムに住んでいるが、
日本に一時帰国したタイミングで私にハガキを送ってくれたようだ。
(彼女の人柄が見えて微笑ましいのだが、ベトナムには良いハガキがなかったらしい。)

彼女からの絵ハガキを手にしたとき、私が感じたことはこうだ。

この絵ハガキ、どこで買ったんだろう。
私に出すためにお店を何軒か回ったのだろうか。
それとも、出先でふと目にして私に送ろうと思ってくれたのだろうか。

この文章はいつ書いたんだろう。起きたとき?寝る前?
仕事の合間の休憩時間に、コーヒー片手に書いたのだろうか。

彼女の体調はどうだろう。
一時帰国して、日本の寒さに風邪をひいていないだろうか。
実は体調が優れなくて病院の受診前に郵便ポストに寄っていたりしないか

・・・

ハガキ半分に14行の文章。

それを見て、私の頭には上記以上のことがあふれ出てきた。
止まらないのだ、疑問や感情が。
相手のことが必要以上に知りたくなる。

そういえば、以前も彼女から手紙をもらったことがあって、
私は頭に湧いたたくさんの疑問を夫に話した。

すると、
「え、そこまで考える?気にしすぎじゃない?わかんないよ。」と一蹴されたっけ。

今回も、そう。文章だけ読むのなら1分で読み終わる内容だ。
それでも、私はそのあと1日かけて、なんなら翌日になっても、
彼女がどうやってこのハガキを出したのか、考えていた。

そうなのだ。私は、1人の人と関わると言葉や感情が溢れて止まらなくなるのだ。

それに気づいたとき、過去の自分の行動に納得した。
私は1人に対してたくさんの時間をかけて考えるから、
頭の中で言葉や感情を処理できる人数が決まっている。

そっか。

私は【数】より【深さ】を求めていたんだ、と。




友達が少ないことを私は気にしていて、変わりたいと思っていた。

けれど、私が望むことは、友達が多くなることではない。

1人の人と深く関わること。そういう生き方が好きだ。

だから私はきっと、このままで良いんだと思う。
過去の自分の行動も決して否定するようなものではない。

そう気づいたら、自分の良さをもっと活かして生きたくなった。



自分が今まで悩んできたことって、見方を変えれば自分の良さになる。
でもその”見方”を変えるのが、とても難しい。

そのためには、考える。ひたすら考える。

考えることを諦めてはいけない。
自分を知ることを続けていけば、いつか必ず欲しかった答えが見つかるはずだ。


そんなことを考えながら、私も彼女に返事を書く。
果たしてこの手紙は、無事にベトナムの彼女の元へ届くのだろうか。

彼女が与えてくれた気づきへの感謝を、この満開の桜に託して。

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