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自己犠牲とヤドカリのお話

自己犠牲という言葉。
私はこの言葉、なんとなく聞いたことはあるが特に気にも止めていなかった。
そして今まで自分自身が自己犠牲をしていることに全くもって気付いていなくて、もはや自分を見失っていたのだ。(いや、まだ見失った私を見つけられていない……!)

自己犠牲=何らかの目的や他者のために、自己の時間・労力・身体・生命をささげること。Wikipedia

意外と無意識で自己犠牲とりがちな人って多いんじゃないかなって思う。

私は……本当はこうしたいって思うはずなのに、
相手が喜ぶことを優先する。
まずは相手を尊重すること。その上で自分も幸せであればといつも思っていた。
ただ、ここでいつも『モヤモヤ……』が生まれるのだ。その正体は『見返り』『期待』『承認欲求』などの相手の態度に左右される自らのマインドだ。私は自分を犠牲にしてあなたの『ために』こうしているのに、何故あなたは私に『感謝』をしないのだ?と、心のどこかで『モヤモヤ……』とするのだ。最初はただただ喜んで欲しくてやっていたはずなのにね。そうして自分はなんて愚かで浅はかで惨めなんだと自己肯定感がなくなる。

私の場合、自己犠牲をとりがちな性格になった原因があるように思う。それは幼少期の環境だ。
私はもともとかなりわがままだった。
大好きな母親に対して、いつもひどく怒って困らせたし、あまりのわがままぶりに兄弟から怒られたことも何度もあった。友達に嫌われた事もあった。
そしてたしか10歳くらいだろうか。私は母親を亡くした。私が困らせたせいではないかと幼い心に傷を負った。(理由は乳がん末期だったのだが…)その後、なんとかして仕事を続ける高齢の父と過ごす私は、人に甘えることやわがままを言える環境になかったので、いつも自分の気持ちを抑え込むことで、対処してきた。
更には、自分が何かしたいと思っても諦める事を繰り返してきたせいで、自分のことが自分でよく分からなくなり、既に『私はどうしたいのか』を考えられなくなっていた。
こうして、知らず知らずのうちに自己犠牲しがちな性格が出来上がったのだ。
そうともなれば、人生の主人公ではなくいつも誰かの脇役である。
だがしかし、私の思考は楽観的でポジティブだ。
だって自己犠牲も悪いことばかりじゃない。
人に合わせられるということは、
ある意味で最強の武器にもなるんじゃないかって思う。

私は、まるで海に流されながら良さそうな貝殻に次々にお引越しをするヤドカリのようだ。
強いものに守られながらも、だんだんと貝殻の質を見抜くことには長けてきて、より自分に合う貝殻を見つけることができるようになった気がするんだ。

だから脇役も悪くないと思うんだ。
いつも相手に合わせるから、実はよく相手をみているの。

私の周りにも自己犠牲の精神がある人がいる。
相手のために自分が変わろうと努力できる人で、とっても優しくて謙虚だ。(内心違ったとしても)
でも誰にでも自己犠牲精神で接していたら、それはただの都合のいい人でおわってしまうと思うんだ。皆楽したい生き物だから、欲深い生き物だから、優しい人にはとことん甘えてしまうんだ。
だから、自分のことを本当に大切にしてくれる人を『見極める』事が大切でお互いに成長し合えるような人を自ら『選んで』過ごすべきだとは思う。

他の誰かのために大切な自分を犠牲にする必要なんて全くない。
自分を大切にした上で相手も大切にして、そうやって主人公になってみてもいいかもしれない。
ずっと脇役だったからいきなりは難しいけど、少しづつでいいから自分の心の声を大切にしたい。『私はどうしたいのか』をまずは考えて、常に心の声に正直になろう。
『私の幸せ』そして、その上で『相手の幸せ』も考えれば良い。

私のことを分かってあげられるのは、他の誰でもない、私だけだから。

あなたの事をわかってあげられるのは、他の誰でもない、あなただけ。


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