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コーヒーカップの境界線

「それで、彼氏とはどうなの」
「えっ、別に。フツーだよフツー」

わたしの目の前に座るこのひとは、名前をコウスケという。
ブラックコーヒーが飲めない彼は、たっぷりのミルクと、砂糖をふたつ。
片手で持つのがこわいから、とコーヒーカップには左手を添える。
熱い飲み物を飲むと、まばたきの数が増える。
笑ったときにのぞく八重歯がコンプレックスで、大きな口を開くときは口元に手の甲をあてがう、その癖。
こうして向かいあってコーヒーを飲むのは、もう何度目になるのだろう。

「ねえ、彼氏の名前、なんだっけ」
「コウちゃんだよう」
「なんだ、おんなじじゃん」
「うるさいなぁ」


コウスケとの出会いは、大学時代だった。
「マイコと気が合いそうな男、知ってるよ」
友達の紹介でなんとなく付き合いはじめたわたしたちは、四ヶ月だけ付き合って、あっさりと別れた。
友達の言うとおり、コウスケとわたしはぴったりと合った。
話しをするときの呼吸や、煙草に火をつけるタイミング。
食事を口に運ぶテンポだって、絶妙だった。
恋人ができたのははじめてだったけれど、これが恋ならばなんて居心地がいいのだろう。
コウスケはわたしの日常にあっさりと溶け込み、あっという間に生活の一部となった。

休みの日には、きまってどちらかの家に泊まって、一晩中酒を飲んだ。
互いの部屋に二客ずつ、揃いで買ったやたらと大きなコーヒーカップに酒をたっぷりと注ぐのがわたしたちのお決まりだ。
甘いお酒で酔っぱらうコウスケと、度数が高い酒ばかりを買い込むわたし。
大して酒が強くないのに何種類も混ぜたりして、ふたりで顔を真っ赤にしながら、へべれけになるまでたらふく飲んだ。
酔いが回るとコウスケは、くふふ、と口をすぼめてよく笑った。
そんなコウスケが、かわいらしくてすきだった……気がする。
たった四ヶ月だったけれど、暇を持て余した大学生の四ヶ月は濃厚だ。
毎日のように顔を合わせていたのに、わたしたちはたったの一度も、体をかさねたことがなかった。


付き合って四ヶ月が経ったころ、「恋人じゃなくてもよくない?」と、いかにもな台詞で、わたしは振られた。
涙は、ちっとも出なかった。だって、恋人でなくなったあともわたしたちの関係に大きな変化はなかったのだ。
わたしが振られたその日、コウスケはわたしの部屋で泥酔して眠った。
わたしが振られた翌週、わたしはコウスケの部屋で泥酔していた。
付き合っていたときと変わらず、揃いで買った大きなマグカップになみなみと酒を注いで。

そうしてコウスケとの関係は、ずるずると四年も続いた。
互いに就職し、生活はがらりと変わったけれど、わたしたちは変わらず、週末になると当たり前の顔をして互いの部屋を訪ねあった。
酔っぱらったいきおいで、どちらともなくキスをすることはあった。
けれどやっぱり、どうしてもそれ以上の関係になることはなかった。
境界線はいつもあいまいで、体の関係なんてなくても良いと思った。
だって、わたしはしあわせで、これ以上の関係などあり得えないように思えた。
大きなマグカップに酒をなみなみと注いで、朝をむかえたら、中身をそっくりコーヒーに替えて、煙草を二本ずつ。
コーヒーの香りと煙草の煙がすっかり混じって馴染んだころ、ならんで夜明けを実感する。
それからふたりで布団に潜り、夕方になってようやく身支度をはじめるのだ。
だらしがなくて、情けなくて、いとおしい日々。
そうして過ごしてきた四年間に、いったいなんて名前をつければよかったのだろう。


「恋人ができたんだ」
四年目の秋、コウスケに恋人ができた。
わたしと別れて以来、はじめての恋人だった。

「良かったじゃん、おめでとう」
「マイコには、一番に話しておこうと思って」
「へぇ、いくつの子」
「ふたつ上」
「へぇ、意外。年上のお姉さんってタイプじゃないと思ってた」
「お姉さんっていうかさ」
「……へ」

コウスケと付き合った四ヶ月間にたった一度だけ、ふたりでラブホテルに入ったことがあった。
宿泊八千八百円。都内では格安といえるような値段でも、大学生にとっては大きな出費だ。
「お金、足りるかな」
部屋を選ぶパネルのまえで顔を見合わせて、笑いをこらえながら互いの財布をのぞきこんだ。

「ねぇコウスケくん」
「なに」
「しよっか」
「……いいけど」

どちらともなく裸になって、わけもわからないまま体をからめた。
わたしたちは、とてもぎこちなかったと思う。
くすぐったくて、あったかくて、なんだかとても照れくさかった。
鼻先で揺れるコウスケの柔らかな髪は、さきほどまでいたお好み焼き屋さんの匂いがした。
ひっくり返すのに失敗したお好み焼きは、箱のなかでぐしゃぐしゃになったケーキのようにズレてしまって、ふたりしてゲラゲラと笑ったのだった。

「……なに笑ってんの」
「ごめん、思い出し笑い」
「なんだよぉそれ」
「あは、ごめんごめん。だって、コウスケくんの髪の毛、お好み焼きの匂い
するんだもん。思い出しちゃって、あぁもう」

裸のまま笑いが止まらなくなってしまったわたしと、すっかりむくれてしまったコウスケ。
結局、その晩コウスケとわたしが結ばれることはなく、持ちこんだ缶チューハイを何本もあけた。


男のひとなんだ、とコウスケはいった。
ふたつ上の会社員で、名前はコウタローということ。
互いに「コウちゃん」なので、名前で呼び合うことにしたこと。
「背が高くて、目がきれいなひとなんだ」といったコウスケはまるで少女のようで、胸がどくんと波打った。

「引かないの、マイコ」
「……引かないよ、引くわけないじゃん。そういうことかぁ」

未遂に終わった恋の続きをすることは、きっとこの先もう二度とないのだろう。
あの日、あの晩、わたしが笑わずにきみに抱かれていたら――。
わたしが本当にほしかったものの正体に気づいてしまった気がして、ぎゅっと目を閉じた。


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