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【小説】ピアノの音

 幼少期は、母から暴力を受けていた。私の泣き声は、母親のノイローゼの原因であり、虐待のトリガーでもあった。

 成長しても、私の声は親を苛立たせるもので、私は、泣くのはおろか、声を出すことも恐ろしかった。11歳の誕生日を迎えてすぐ、私は自分の声を無くしてしまった。ただ、内気な子供であるように振る舞うようになり、親を苛立たせることは少なくなった。


 私の家には小さな庭があった。家の塀には貧相な蔓がはり、プランターには枯れ果てたゼラニウムが植っていた。私の部屋にはグランドピアノがあり、防音のため、窓には重いカーテンが設置された。母は私をピアニストにすることを夢見て、無理矢理、ピアノの練習をさせた。バイエル、ブルクミュラー、ソナチネ、ソナタ。母からは、「同級生の2倍早く、ピアノの教本を進めなければいけない」と言われていた。しかし、私は11歳にして、自分には音楽の才能がないことに気が付いていた。上達の遅さ、練習の苦痛さ、私はピアノが好きではなかった。それでも、母が私に掛けてくれる唯一の期待であることを理解して、ピアノの練習を続けた。そのうちに、ピアノは辛いときの逃避先になっていった。

 
 私が声を失くした時期、父は社内で昇進をした。母は喜んだが、父は日に日に疲労していき、痩せ細っていった。父はいつも不満な表情をしていた。そして、母以上に音に敏感になり、無口になった。


 ピアノの練習中、部屋の外から突然、うるさいと父の怒鳴り声が聞こえた。私は、鼓動が速くなるのを感じ、ピアノの音も、私の泣き声と同様に、親を苛立たせるものとなったのだろうと悟った。
練習を辞めて、部屋から出たが、外にいた父は何も言わなかった。私は混乱した。父はタバコ臭く、生温い家の空気と相まって、気分が悪くなった。


 次の日、父は元気はなかったが、いつもと変わらず無口で、私は、怒鳴られたことが夢であったように感じた。しかし、食卓では、父が母を横目で睨んでいた。母は父を無視し、私に、「これからも、ピアノを弾いていいからね」と言った。私が寝た後、父と母はピアノの音を巡って喧嘩をしたのだろうと察せられた。


 それ以来、カーテンや扉をぴっちりと閉めるようになった。両親の仲は年々悪くなり、夜中の2人の怒鳴り声で私は寝不足になった。


 梅雨入り前の陽気な天気の日、私は、いつも通りピアノを練習していた。何か嫌な予感がして、ふとドアを見ると、隙間があることに気が付いた。ドアを閉めようと、椅子から立ち上がると、突然に大きな物音が聞こえた。それは父が出したものに違いないと直感した。聞き耳を立てていると、居間の扉を閉め、こちらに誰かが向かってくるようだった。部屋に来たのは、予想通り父であった。
 ドアを開けた父の手には、包丁が握られていた。父は、うつろな視線を私に向け、「音がうるさい」と怒鳴った。その声は、以前聞いた怒鳴り声の何倍も憎しみと怒りが込められていた。
「ピアノの音は俺への嫌がらせか」と父は続けた。
 私は口が聞けず、寒気と怯えで後ずさった。血走った父の目は涙が浮かんでいたが、それは、騒音から解放される嬉しさを感じているようだった。私は、父の包丁が単なる脅しではないことを悟り、血が凍った。私の最期の記憶は、歪み、激怒に染まった父が、包丁を構えた姿だった。この姿は今でも脳裏に焼き付き、思い出すたびに戦慄が走る。私は、胸を刺され、身体をバラバラにされてしまった。


車に乱暴に積まれ、山に放置された私は、まだ意識があったものの、苦しみから抜け出せることに安堵した。そしてこれまでの自分の人生がどれだけありきたりなもので、つまらないものだったのか、鮮明に思い返していた。意識が遠のき、暗闇の向こうが迫ってくる中、弱い光が差した。光の先には懐中電灯とスコップを持った、薄汚れた格好をした、細身の男性がいた。
「おお可哀想に」と男性は呟いた。
彼は、血で固まった私の手と脚、バラバラに切り落とされた指を拾い上げた。
「元通りにしてやろう」と男性は、横たわる私に向かって言った。
男性は、長く四角い鼻をしており、目は好奇に燃えていた。私は、自分の意思を伝えようとしたが、声が出なかった。


 驚くことに、私の身体はその男性によって修復された。起きあがろうとする私を男性は制し、血で汚れた手袋を脱いで、私に握手を求めた。泥と血で汚れた男性は、手術の成功に興奮しているようだった。
「私のことは博士と呼んだらいい」と彼は言った。
「博士」と呟こうにも声を出すことができなかった。博士が、私の瞼に手を伸ばした瞬間、目の前に霞がかかった。


 意識が戻っても、私の体は刺される前と同じように思えた。しかし、私が寝かされている台は血で染まっていた。博士は私のそばの椅子でうたた寝をしており、ここが博士の家であるとわかった。私は、博士の顔をしばらく見つめてみたが、彼は起きなかった。本棚の自然科学や哲学の本が目についた。フローリングは何かを引き摺った跡で摩耗しており、部屋の隅には番号がついた箱が大量に積まれていた。


「起きたようだね」と博士は言った。博士の顔色は、昨日見たよりも血色が悪いように感じた。
「調子はどうだい?」と博士は私に聞いたが、早口で「そうか、声はまだだったな」と付け加えた。
私は、「書くものが欲しい」というジェスチャーをしたが、博士はそれを無視した。私は、元の家に帰されるのかどうなのかを聞きたかった。もし帰らなくていいならば、まだ生きていたいと思った。目に涙が溢れていることに気がついた。汚れた窓の外は、小雨だった。
「君は人造人間2号だよ。」と博士は言った。私は、自分の空想を超えた、虚構の世界にいるような気がした。
「1号は醜い。だけど君は1人の人間から創り直したから、見た目は人間と変わらない。1号に合わせてあげるから付いておいで」
博士は、キーケースを白衣のポケットから出した。キーケースには鍵が3つ付いていた。

部屋を出ると暗い廊下があった。
博士の家には3つの部屋があるようだった。博士はそのうちの角にある部屋の鍵を開け、重そうなドアを開いた。椅子に座る人影が見えた。


 1号は爛れた皮膚にホッチキスのようなつなぎ目で縫われていた。その繋ぎ目には蛆虫が這っていた。彼の服は比較的に清潔であったが、据えたような臭いが部屋中を充満していた。私はこれほどおぞましい生物を初めて見た。
「友達が欲しいと言っただろう、君の友達だ。」と博士は、私を指差して言った。1号は私をしげしげと見つめた。その目は明らかに不服だった。
「僕とは違う」と1号が低い声で言った。
「君と同じ、僕が創った人間さ」と博士は言った。1号はボロボロの歯を剥き出しながらついにかと笑い、私に親しげに手を差し出した。
私は手足が小刻みに震えているのに気づいた。
「しばらくお話しをしなよ」と博士は、私を残し去っていこうとした。待ってという意思を示しても、博士はさっさと部屋から出ていった。


 1号は私に椅子を勧めた。私は、自分の鼻がだんだんと麻痺していくことを感じた。1号は私が人造人間という一点だけで私に好意を向け、私のことを自分の理解者だと言った。しばらくして、私が話をできないことに気がつくと、「僕も君の理解者だ」と親切に言った。しかし、私は彼の風貌に慣れず、身うちの凍る思いであった。1号には創られる前の記憶はないようであったが、どれだけ自分が孤独であったかの身の上話を私に聞いて欲しがった。


 戻ってきた博士に「外に出たい」と意思表示をした。「君にも部屋を作ったよ」と博士は言った。私の部屋は、窓や家具はなく、独房のようであった。


 博士は、時折り、1号の身体を眺め、自尊心の満足を得ているようだった。彼は、私よりも1号に重きを置いていた。博士と1号は性格が似ているようで、博士も話すことをできない私に自分の野望を語りたがった。博士の興味は、人を治すことよりも、新しい生物を自分の手で創り上げることであった。博士は、自分が私たちの創造主であることを理由に私に感謝を要求した。私は、博士への嫌悪感と共に、自分が1号ありきの人造人間であると気がついた。ここでも私は、自由ではなかった。


 博士と出会ってから1週間ほど経った後、「声の手術は明日だ」と言われた。博士は、自分が感謝されることを疑わない表情をしていた。側にいた1号は、「とうとう声が聞けるのか」と喜んだ。


 私は全く眠れなかった。わたしの頭に、あらゆる考えが現れては消えていった。博士は、私のことをただの人間と変わらないものと判断して、興味を失っていた。しかし、私は自分の力が随分と強くなったことに気づいていた。
手術の日、私は、博士に復讐をしようと思った。博士は私の意思を聞かず、私の命を創り直した。死ぬ前と同じように何も変わらない。この苦しみがいつ終わるのかもわからない。ただただ、自由になりたかった。


次の日、博士はあっけなく死んだ。


 私は、1号のいる部屋は鍵がまだかかっていることを確かめた。博士がいなければ、部屋から出ることも叶わない1号は死ぬと予測ができた。
「人造人間を殺すことは、人殺しなのだろうか。」
「人造人間が、人を殺すことは、罪なのだろうか。」
横たわる亡骸のポケットから3つの鍵とナイフを奪い、外に持ち出した。私はこれから自由に生きることができるのだ。私を殴った母親や、私をバラバラにした父親にも会うことができる。夕焼け空。住宅街ではピアノの音がした。

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