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【マイ・ブロークン・マリコ】感想

アマプラで出てたので、昼下がりに一人で鑑賞。
元々原作は少しtwitterで読んだことがあり、あらすじは知っていた。
下記ネタバレ含みますのでご注意ください。


陰影の使い方が印象的な映画だった。
画面の中の明るさがそのままシィちゃんの心境を映し出しているように感じられた。
例えば、画面が暗い場面が多く(特に序盤)、登場人物の表情もはっきりとわからない場面がとても多い。
そんな中親友の死を、昼間の町中華のお店で流れているテレビで知るシーンは、陽の光が明るくてどこかわざとらしく、白昼夢のような呆然とした、少し気味の悪い時間をこちらも体感しているような心地になった。
なにかとてもショックなことがあった時の日中の陽の光って、何故か不気味に感じられるんですよね…私だけかな。

ざっとしたあらすじは、ブラック企業で働いているシィちゃんが、自殺した親友(マリコ)の遺骨を虐待していた毒親の元から奪取し、かつて一緒に行きたいと話していた海に散骨するため旅に出るという話。
毒親って、子供を虐待して奪って壊している癖に、自分自身は子供を大事に思っている、愛しているって疑わずにいることが多い気がする。
一貫性がなくて破綻しているように見えるけれど、自分の中ではきっと筋が通っているのだろう…。

家の様子を見る限り、マリコの家は低所得層であることも原因なのかもしれないが、お葬式すらあげてもらえず直葬されている。
お葬式とか法事って、お金はとてもかかるし忙しいしで、現代では簡略化されることがとても多いけれども、それでもやっぱりやる意味はあると思う。
一昨年祖母のお葬式を実際に行ってみて改めて実感した。

お葬式までに決めること、執り行うことはとても多い。調べることもたくさんある。正直怒涛の忙しさで疲労困憊になった。
けれども、その忙しさや、聞きなれないお経を聞いて、慣れない作法を行って、別れを惜しんで泣く。その一連の中で、あぁ亡くなったんだなとじんわりと実感し、受け入れる事ができた気がする。

あっさりと何事もなく日常に戻られては、あまりに受け入れる時間がなさ過ぎてどうしようもない気持ちだけ抱えて過ごすことになってしまう。
きっとシィちゃんはあの旅の中で、一人じっくりとマリコのお葬式を行っていたんだと思う。

救えなかった悔しさや当人への怒り、寂しさ、悲しみを感じる時間を設けられたからこそ、シィちゃんは現実に戻ってこられたんだと思う。

少女二人で築き上げた世界は、きっと家庭・学校という狭い社会の中で生きていくには、壊れかけたマリコを繭のように守ってくれていたものだった。
けれども、大人になった世界で生きるには、あまりに繭は脆くて、マリコは羽化できなかった。二人だけで作る繭はそんなに強いものではないから。

ラストシーンでこれまで死ぬ前に、何も言わず遺さず、黙ってシィちゃんを置いて逝ってしまった(ある意味裏切り)と思っていたマリコから、シィちゃんに宛てた遺書が残っていたのをシィちゃんが受け取ったのを見て、
少し救われた気持ちになった。




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