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「心の恋人」という考え方 ー 江國香織『間宮兄弟』

 友達に、普段あまり本を読めないがしいて言うなら江國香織が好きだと話したら『間宮兄弟』をおすすめされたので読んだ。金曜の夜と土曜の移動時間を利用して3時間程度かかったと思う。

 江國香織については、日常を生きているのにどこか非日常的でアンニュイな女性たちが恋に没頭する物語を好んで読んでいたため、『間宮兄弟』というもてない中年男性2人が主人公の小説は、自分から進んで手に取ることはしていなかった。

 読んでみて、江國香織は女性を主人公とした恋愛小説のイメージが強かったのに、もてない間宮兄弟の心理描写がなんとも巧みで驚いた。好きな作家の新しい一面を知ることができ、たいへん得をした気分である。

 読書は時間も労力も要するくせに、期待外れな内容にがっかりさせられたり、逆に引き込まれすぎて世界観を読後もしばらく引きずってしまったり、時には読まなければよかったと後悔するほどの衝撃を受けたりして、精神衛生上良くない影響を受けることが少なくないので、安牌だとわかっているジャンル以外に手を出す勇気がなかなか出ない。映画やドラマもまた然りである。
 もちろんたいへん気に入って心に染み入るような作品に出会えることも多いため、さながらギャンブルに取り組む気持ちで作品を選んでいる。

 今回は友達のおかげで、よい読書体験を得ることができた。大衆の意見ではなく、身近で信頼できる感性を持つ人におすすめを聞いて視野を広げていくことにしたいと思う。


 さて、この度読んだ『間宮兄弟』だが、新卒OLのわたしが共感できる要素など何ひとつないように見える間宮明信(兄)の心境の描写の中に、思わず電車内で頷いてしまうようなことばがあったのでそれを記録しておきたい。

 明信は沈んでいる。どうして沈んでいるのかといえば、いままで「心の恋人」だった直美ちゃんが、いきなり現実の友達になってしまったからだ。また遊ぶ約束をしたし、携帯電話の番号まで教わった。これはもう立派な友達といえよう。

(中略)

 明信にとっては、現実の友達より心の恋人の方が、はるかに親しく特別なものだった。大切でいとおしいもの。
 彼女はすでに「ビデオ屋の直美ちゃん」ではなく、本間直美という一人の人間として存在してしまった。両親と妹の四人暮し、大学三年生。明信はため息をつく。これまで、現実の人間と恋ができたためしがないのだ。

『間宮兄弟』p.81   江國香織 小学館 2007

このつづきには、明信がいかに現実の人間との恋に破れてきたかというエピソードが羅列されている。そこで明信は現実の恋に臆病になってしまった。意中の相手からの拒絶だけではなく、周囲の人間から非難されることまであった。ここのエピソードに関してはたいへん心が痛む。

 そこで明信が編み出した方法、「心の恋人」とは、言い得て妙だ。現実に恋を叶えようとすると、想いが届かず、非常に傷つくリスクがある。そこで、愛し愛されるのは心の中でだけ。誰にも邪魔されないし、失敗する心配もない。なんとも合理的な恋の仕方であると思う。

 これは、恋に関してつらい過去をもつ明信のような人間だけではなく、多くの人たち、特に若い女の子たちにも通じる考え方なのではないか、と感じた。

「心の恋人」は、「推し」に近い存在だと考えている。

 「推し」というのははじめ、ディープなオタクにのみ通じることばだったと思われるが、いまでは老若男女多くの人たちに「推し」が存在しているのではないだろうか。アニメや漫画のキャラクター、声優、俳優、アイドル、など、直接会って親しくすることが難しい存在に好意を寄せて心の支えにしている人がたくさんいるはずだ。
 明信と違うのは、多くの人が好意を持っていることを隠さずにオープンにしている点だ。基本的に「推し」ということばは、自分が相手と密な関係を持ちたいという願望を含まない。自分と相手の立場の違いを前提にして、陰から相手を見つめていたい、という関係性であるとわたしは理解している。

 そして、この「推し」ということばの使い方だが、近年少し変化しているように思う。物理的に手の届かないキャラクターや芸能人だけではなく、現実世界で関わる人間に対して「推し」だと公言する女子たちを、少なくともわたしの周りでは何人も見かける。多分に漏れずわたしも、大学時代の同級生を友達と一緒に「推し」て、盛り上がっていた経験がある。
 この間も、職場の女の子が同僚男子の写真をこっそりと撮っていたので、「好きなの?」聞いたら「違う、『推し』なだけ!」と言われ、なんだそうかと納得したことがあった。

 「推し」は、「好感を抱いているのは確かだが、恋愛関係になりたいと強く思っているわけではない」ことをアピールできる、たいへん便利な二文字になっているようである。

 明信の「心の恋人」は、近年の女子が言うところの「推し」に近いものであるのではないか。 「推し」ということばを多用する女子たちは、皆が皆明信のように恋愛のトラウマを抱えているわけではないと思うが、恋に失敗して傷つくことを恐れて、「推し」ということばを選択しているように思える。
 「心の恋人」をつくる明信も、現実の人間に「推し」をつくる女子も、あわよくば恋を成就させたいという気持ちが1ミリもないわけではないだろう。(と、わたしは思う。)

 少し話が逸れるが、わたしはいつからか、「好き」ということばがたいへん生々しいものであると感じるようになった。
 中学生くらいまでは、「好きな人ランキング」という馬鹿馬鹿しいランキングが存在していたのを覚えているが、高校に入学してからは軽々しく「好きな人」ということばを発することができなくなったような記憶がある。
 異性(もしくは恋愛対象となる存在)に向けられる「好き」すなわち、「恋人になって、愛を確かめあって、手を繋いで、キスをして、それから…」という欲が前面に押し出されている気がしてしまって。

 その点、「推し」ということばはプラトニックな感じがして気軽に使いやすい。「推し」に「ガチ恋」などとして、違ったニュアンスでことばを用いている人も少なからずいるとは思うのだが、わたしと同年代の、Z世代の女子たちが「推し」を多用する背景には「好き」ということばの重々しさも関係していると考察した。
 気軽に自分の気持ちを全世界に発信できるZ世代女子にも、明信と同様の奥ゆかしさがあるようである。



 間宮兄弟は結局、本の中で現実の恋人を手にすることはなかった。けれど、おでんの味や、パズルや読書をする時間を共有できる存在がいるならば、それで十分ではないかと思わされる作品であった。
 間宮兄弟と友達になれるならば、お宅にお邪魔してみたいものである。
 依子や直美として訪問するのは気まずくなりそうでリスキーなので、できれば夕美として行きたい。


 『間宮兄弟』をおすすめしてくれた人は、この話を先に映画で知ったようなので、これから映画の方も観てみようと思っている。
 レンタル購入しようとキャプションを見ると、ジャンルはコメディで、「大爆笑ムービー!」と書いてあった。
 読後の感想としては、大爆笑のシーンはなかったが…というところではあるが、期待してみる。

 ところで一つ、気になる点がある。それは、ポスターに載っている写真を見ると、本間姉妹と葛原先生も浴衣を着ている点である。
 原作では、客人を迎え入れた間宮兄弟だけがあたらしく仕立てた浴衣を着ていて、本間直美は「浴衣を着て行こうかな」と言ったことをすっかり忘れ、洋服でやってきた。
 ここに関しては、直美と明信それぞれが感じている心の距離のギャップがよくわかる切ない描写だと思っていたので、設定が変えられてしまっていることは少し悲しい。

 実写化する場合、尺や場面展開の問題があって、完全に原作通りとはいかずに脚色する必要があるのは重々承知している。
 しかしながら、絶対に原作に忠実にすべき点もあると思うのである。
 『間宮兄弟』はまだ観ていないので、観てからもう一度考えてみようと思っているが、もしも、「美人女優に浴衣を着せないなんてもったいないな〜」という考えからの設定変更だとしたら残念だ。
 確かにあの三人に浴衣を着せないのはもったいないけれど。

 原作を読んですぐ映画を観て、比較すると考察が深まって楽しい。
 映画化される小説は名作揃いだと思うので、今後は実写化作品を中心に読んでみようかと思う。

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