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毒消し売りの旅④(安吾新日本風土記より)

さて、毒消し売りの旅4回目、坂口安吾が残した毒消し売りについて残りの部分を追いかけます。
廃村になってしまった毒消し売りの村の話、昭和30年当時の毒消し売りの姿が綴られています。

角海かくみ浜の今…

毒消し売りの製造場の主人が角海浜のことを語り始めます。

「このずッと奥に角海カクミという部落があります。角田山と弥彦山の真裏に当る海岸で、そこへ行くには今でも道らしい道がない。木の根によじながら山をこえて行くようなところです。その部落に称名寺という寺があって、この寺が毒消しを造りはじめた元祖です。もとは角海の部落の者が毒消しを売ってたのですが、いまは角海の者はやらなくなって、角田の者だけが売りにでるのですね。そうさなア、今でも道のないような山の底の海岸だが、あそこには畑すら在りようがないのだし、角海の部落は昔は何をしていたのだろうね。大昔は海賊部落じゃなかろうかねえ」
 主人は茶をついでくれながら静かに呟く。問わず語りである。私も全然浮世ばなれた気持になるばかりである。主人の問わず語りは静かにつづく。
「私のうちが庄屋をしていたものだから、ま、称名寺の檀家総代というわけで、毒消しの製法を教えてもらって、それで毒消しをつくるようになったらしいが、その称名寺はいまは角海にはありません。巻へ引越しております。この寺も二三年前まで毒消しをつくっていたが、いまはやめてるようです。だんだん毒消しをつくる者が少くなりますね。毒消しの歴史については伝説めいたものがあるばかりで、はッきりしたことは私は知りません」
 超越した言葉である。その彼の口から、角海の部落はもとは海賊じゃアなかろうかねえ、ときたものだから、私も妖しい気持になって鳥ならば角海へ行きたいとひたすらに思った。

富山の薬と越後の毒消し 落ち着き払った旦那の村
角田浜から角海浜までは五ケ浜を経て、南に海岸沿いを行くも数キロ以上はある。

同行した記者と安吾は、感動のまま、角海浜に行こう!と意気投合するも、主人に「とても行ける道ではない」と、制止される。
「とても、とても。いまでも道らしい道がないのです。ま、舟で行くより仕方がないが、冬の海ではそれもできません」とのこと。

昭和30年には、もう角海浜から毒消し売りは出ていないことが分かり、さらに、主人によれば、今は石を切りだして生計をたてており、角田浜の集落はこの角海の石で塀を立てているのが少くないそうだ。
安吾は季節が変わったら、行ってみたいとだけ残しています。

「延宝2年の角海浜絵図」右側の村が角海浜 ~にいがた観光ナビから引用

ところで角海浜ですが、国土地理院の空中写真からもその様子は伺え知ることができます。追いかけられる写真は下記の通り。

左から「60年代、70年代、現在」 60年代はまだ区画がはっきり見えるが、70年代はほとんど荒廃した砂地のように見える。 今は電力会社の建物でしょうか、それが見えるのみ。
2万5千分の一地形図(国土地理院HPより)

wikiによれば、60年代後半で戸数は一桁。限界集落となり、原子力発電所建設計画が立案された。1971年には本計画に基づいて集団離村が行われ、1974年7月には最後の住人がこの地を去って完全に廃村となった、とあります。

安吾だから聞き出せたかもしれない…

このおびただしい邸宅がまだなかった昔、砂丘の畑があるだけだった昔はたしかに悲しい部落であったに相違ない。そして部落の女は否応なく毒消しの行商にでかけなければならなかったに相違ない。米を食うためにである。事の起りはそうであったに違いないが、今ではあまりにも違うのである。
 毒消し売りの女が私に云った。
「毒消し売りの流行歌ね。あれ癪にさわるね。あれのおかげで町や村の子供たちが私たちをバカにして、毒消しいらんかネエ、なんてわいわい後を追ってくるし、大人は大人で歌を唄えば買ってやるなんて云いやがるさ。なんだこの野郎ヤロと思うわね。お金と友達だからジッと我慢しているろもね。こんげのボッコレ小屋に住んでるくせに威張るな。毒消しは売っていても、オレがくにへ帰ればオラトコには土蔵もあれば倉もあるがんだと思うわね」

同上

この流行歌とは、1953年(昭和28年)に発売された宮城まり子の「毒消しゃいらんかね」という歌謡曲。この歌によって、「毒消し売り」の存在が全国的に知れ渡るようになったと同時に、少なからず「毒消し売り」という生業の寿命を縮めてしまったのは事実でしょう。

そして彼女らにとっては、毒消し売りの流行歌が彼女らの商売の宣伝になって好都合だというような考え方がまったく在り得ないのである。ただ口惜しいのだ。なぜならこの小さな部落から、十六七から四十五六までの女という女が一千人の余も毒消し売りに歩いている。出るべき女はすべて毒消し売りに出つくしてこれ以上商売のひろげようがないのであるし、彼女らの現在の商売は上乗でつまり土蔵も倉も建つ一方であり、流行歌なぞの宣伝はしてもらっても意味がないのだ。この村の心境ばかりは日本の常識で見当がつけられない。越後の西蒲原といえば小作争議発祥の地で日本一の貧農地帯であった。その中でも別して貧農の故に毒消しを売りにでた部落が今では日本で最も堂々たる邸宅のそろった村なのだ。そしていかなる南国といえども、これほど南国的な豊かさ明るさ爽やかさのみなぎる村は見ることができないのである。

同上

安吾が接した毒消し売り

この文の後半、「毒消し売りの生態」として安吾が聞き調べ、接した毒消し売りの現状について詳細に記されています。全文載せたいくらいですが、冒頭部から…(一部繰り返しにはなりますが…)

富山の薬売りと越後の毒消し売りは表面似たようでありながら、内実は非常にちがっているのである。
 まず富山の薬売りが薬だけ商うに反して、毒消し売りは毒消しが看板にすぎない。毒消し売りと称しながら他の物品を主として売り歩いているのである。大は反物、オムツカバー、メリヤスシャツの類からポマード、オシロイ等の化粧品、シャボン、ブラシ、鋏、ナイフ、ヘアピン等の日用品一切にわたって売り歩く。彼女らは自ら移動百貨店と称しているのである。
 したがって、富山の薬のオトクイが都会地であるに反し、毒消しは農村専門だ。云うまでもなく商店で自由に物の買える都会地は彼女らの商売する余地がない。もっとも彼女らは都会地に合宿している。それは農村へ分散して往復するに交通の便がよいからで、つまり都会は合宿の拠点であるが商売する場所ではないのだ。
 富山の薬売りは一泊三百円もだして商人宿へ泊るが、毒消しはそういうムダはしない。小さな一部屋を借りて何人かが下宿しているのが普通であるが、なかには小さな家を一軒持っていて、そこに十数名泊りこんで、年中そこを拠点にしている一団もある。
 毒消し売りは年配の女が一団の隊長となっていて、これを親方とよんでいる。一人の親方には何名かの子供とよばれる弟子格の売り子が属している。これがそれぞれ隊をなして、各々の拠点にあるいは家をもち、あるいは下宿して連日行商に農村を往復するのである。だから生活費は安くつく。彼女らが土蔵や倉をたてることができるのも、モウケが莫大である理由のうちに生活費を格安にあげているのが含まれているわけだ。彼女らにとっては富山の薬売りが旅館を泊り歩いているのが驚きでもあり不可解でもあって、
「女はこまかいからね。土蔵や倉が建つのも女の強み」
 と内実は甚しく自負している。彼女らにとっては男は眼中にない。彼女らは結婚して後も行商にでる。結婚したその年すらも、子供を生んだ直後ですらも、その場合には乳飲み子を連れて行商にでる。もっとも拠点まで連れては行くが昼は人にたのんで行商にでる。朝晩乳をやるだけだ。

富山の薬と越後の毒消し 毒消し売りの生態
豆本より ひとりの「親方」

前述の流行歌のことを方言交じりでまくし立てたのは、この部落の指折りの親方でした。

1966年頃 東京・銀座 「報じられなかった写真」小林新一
このような都会を歩くことは稀だったのだろうか… 

上記のような生活がどのくらい続くかといえば、
「昔は五月半ばに行商にでて十月には帰ったものだが、今では年中である。正月とお盆と四月と十月の村祭りに帰るだけで、~(略)
全員例外なくそうである。個人行動は許されない。むろん新婚の妻も古女房も例外ではなく、年に十ヵ月は旅にでているのである」
とのこと。

そして、万が一、旅先での色恋沙汰が発覚すれば、毒消し売りの仕事はもうできず、家族まで非難され、村には居られないような厳しいきまりがあったようです。同時に、問題が起こった場合には、得てして、亭主の方が我慢する。安吾の言葉を借りれば、
 「女が胸をさすってジッと我慢するうちは落第なのである。男がジッと我慢するようにならないと本当の平和は到来しないものなのである。なぜなら、女房がジッと我慢するのは破産型の平和で、土蔵や倉がたつどころか土蔵や倉がつぶれる平和であるに反し、亭主がジッと我慢する平和は土蔵や倉がたつ平和だからである。」

年端も行かない少女から四十半ばの女性までが、このような生活をし、なかば女中の仕事までしていたという…。

ここまで書きながら、昔、新潟出身の「田中角栄」と懐刀の「後藤田正晴」が日本列島改造論のことでやり取りた話を思い出しました。
田中角栄が、その計画を出した時に、政界に入った後だったか後藤田正晴が「なんであんな計画を考えたのか」と問うたところ、「豊かな土地の徳島出身の君には分からないだろう。東京の旅館で働いている女性はみんな新潟の女性だ、女性まではるばる出てこなければ、生活できない辛さは君には分からない」(正確な文言はうる覚え…)というやり取りがあったという。

ところで、どんな状況であろうと「毒消し売り」の女性たちにとって、愛すべき夫と子ども、家族がいるその場所が、真のふるさとであったのは下記の通り。

他国の男は男の中にははいらない。そのよい例が、彼女らは自分の村の男たちには決して毒消し売りの姿を見せないということだ。(略)彼女らは村をでる時と、村へ戻ってくるときはパリッとした洋装にハイヒール、どこの姫君かとまごう姿で出発し、戻ってくるのだ。手には立派なハンドバッグをもってるだけだ。荷物一切は先に貨物で送りだして、いつも手ブラで、美しい姿で、村をでて、また村へ戻ってくる。
 富山の薬売りにも昔は一定した姿があった。すくなくとも戦前まではまだ富山の一定した姿があったのである。しかし今では彼らは背広姿に変った。ところが毒消し売りの女たちは、村の男たちには死んでも見せたくないほどの商売姿でありながら、商売のためにはあくまでその姿を守らねばならぬことを知っている。毒消し売りの流行歌のおかげでよその子供にバカにされて後を追われるのもその商売姿のせいであると知りながらも、しかしこの姿を守らねばならぬことを身にしみて自覚しているのだ。

同上

安吾と記者が角田浜に訪れたのは2月、正月の稼ぎ時からそろろそ毒消し売りが帰ってくる頃であったがほとんど女性はいなかった。それでもちょうど1日前に村に戻っていた毒消し売りの一組があって、「私の懇願も出しがたく、死んでも村では見せたくないという毒消し姿をしてくれた」と撮影に応じてくれたようです。残念ながらグラビア参照となっていますが、写真は見当たらず。
珍しがった村の若者が覗きみるも、
「さすがに千軍万馬の行商に胆をきたえてもいるから、撮影が終ると、再びポッとあからみながらも、男たちが首をつきだしている窓の下へツと駈け寄って、
『ポマードいらんかね』」とからかった。
 安吾は村を去る間際、二人の毒消し売りの娘にくぎを刺される。

娘が二人そのへんをぶらぶらしていた。大そう手もち無沙汰の恰好だ。彼女らも毒消し売りから帰ったばかりなのである。彼女らは私の商売と私が村を訪問した目的とを聞き知っていたらしく、チラと色っぽく私を睨んで、
「変なこと、書きなんなやア」
 と云った。変なことを書きなさるな、という意味だ。普段着だからハイヒールははいていない。セーターにズボン。そして下駄ばき。垣根にもたれて、下駄で鶏が地を蹴るように、砂をうしろへ蹴っていたのである。

同上

ということで、これ以上、多くは語らずとして、今日は終わります。
次回は現在手に入る毒消し売りの書物を少し紹介しつつ、続けてみます。お付き合いいただき、ありがとうございました。



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