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正解が1つだけになる怖さ

最近、酸っぱい葡萄についてよく考える
酸っぱい葡萄とは、イソップ物語に出てくる寓話の1つである

キツネが美味しそうな葡萄を見つける
しかしその葡萄は高い位置にあり、どうしても届かない
手に入らない

最後には「あの葡萄は酸っぱくてまずいに決まっている!」と言い放ち、
キツネはその場を去ってしまう

ざっくりと知っている話の内容はこんな感じ
今は慣用句として用いられることも多い
本当は欲しているのに手に入らないものがある人が
「そんなものに興味は無い!」と思うようになっていく場面で使われるイメージだ

例えば「結婚願望が無い」と話す未婚女性を揶揄するのに使われているのを見たことがある
『女性は皆結婚したいものである』という前提がそもそも歪んだ認識からくるものだと思うので、正しい発言ではないと思うけれど

話が少しズレるが、私はブランド物も、子供を産んで家庭を持つことも、分かりやすい数字の業績も、お金持ちになることもあまり興味が無いタイプだ

「大金使っちゃお!」と50万現金で持って出掛け、5千円程使ってほくほくで帰ってきたこともある
今思うと危ないし良くない遊びだ
なんせ、恐らく私は貧乏性の無駄好きファミリーアレルギーなのだ

また、私には計画性というものがあまりない
それもあり、こういったものを目標にし、達成している人を本当に凄いなと思う
友人が仕事でうまくいったり、子供が出来た話を幸福そうにしているととても嬉しい
ただ自分はしないというだけなのだ

ここでふと不安がよぎる
そこそこの年齢になったときに、本当は家庭を持ちたかった、偉くてお金持ちになりたかった、ブランド物を所持したかったけど
出来なかった人
として扱われるんじゃないか

しかも「初めから求めてません!」と表明したら最後
『何も手に出来なかった酸っぱい葡萄人間』とされるんじゃないか

実際、未婚女性を『売れ残り』だとか、
質素な生活をしている人を『可哀想』だとか、
そういうことを言う人って知り合いにもたまに居る
私の今の幸福な生活だって「そんなので大丈夫なの?」と友人に言われることもしばしばある
勿論私の選択を尊重してくれる友人も沢山居る、本当にありがたい
ただ、ほっといてくれ~と思う場面に出くわすこともそれなりにある

経験上、こういうことを伝えてくるタイプの人達には
『私のすることもしないことも、誰かに何か言われたくて決める訳じゃない』という気持ちがイマイチ伝わらないのだ
万が一気が変わって、家庭を持ったり仕事に成功しても彼等にはあまり言いたくない

話を戻すが、もしこの不安が正しかったら本当に面倒である
折角大人になって干渉されることから解放されたはずだったのに、いくつになっても言われちゃたまらない
流石にうるさすぎる

これって「そういうこと言う人とは関わりません!」というスタンスを取るしかないのだろうか
例えば今「そんなので大丈夫なの?」と言ってくる友人の内の1人
うるさい部分は正直嫌いだが、人としてはとても好きだし尊敬している
長い付き合いなのもあり一緒に居て楽な時も多い
もし関わりを完全にやめるとしたら、頭では割り切れてもやはり少し寂しい

たらればの不安でぐちゃぐちゃと考え込んでしまった
この先何がどうなるかなんて分からないのに、無駄な時間かもしれない
自分はいつだって仮想敵と戦っている
良くない癖だ
これについては、一旦考えるのをやめることにする


逆に、私はどうなんだろうか
勝手に人に(こいつはこれを欲しているはず)とレッテル張りをしていないだろうか
ぱっと心当たりが無くて怖い
自分には不快に思う言動が存在する
それなのにいざ自分はどうかとなると、している自覚が出来ていないということだ

仮想敵への文句より、自分の心配が先だということ気が付いた
私は現在進行形で凝り固まっている己の認知の歪みについて、もっと考えた方がいい
自分のおぞましい部分を自覚できただけ良かったと捉えよう
反省だ

日々、そういったことをしてしまっていないか
大切な人達を傷つけていないか
気をつけて生きていたいなと自戒した

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