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講談師・田辺南鶴「内村鑑三伝」を語る

講談というのは伝統芸能の一つで、江戸落語とは違い、高座に置かれた小さな机(釈台しゃくだい)の後に座り、張り扇で台面を叩いて調子を取りながら軍記物、政談など、歴史、史実にちなんだ読み物を語るのである。

講談のイメージ(illustACより)

多士済々の戦後日本のキリスト教だが、講談師ももちろんいた。

1968年に物故した田辺南鶴(本名 柴田久弥さん)だ。クリスチャン新聞1968年7月7日号に訃報記事として載っている。

wikipediaによると、南鶴さんは滋賀県長浜市の生まれだが2歳で上京。
中学卒業後、唐物屋を開業するも寄席通いにかまけ、16歳で2代目三遊亭金馬に入門、三遊亭金平となる

そのように落語が彼の芸の出発点だったのだ。


講談という芸に惚れ込んだ南鶴師匠

三遊亭福馬、三遊亭一朝を経て1917年、22歳で講談に転じ、5代田辺南龍門下で田辺南郭となる。小南龍を経て1938年、43歳で12代南鶴を襲名。南鶴とは、その初代が田辺派を創始した人物。大名跡なのである。それを入門21年で継いだわけであった。

「講談社」の名の由来

さて講談は、明治末期まで人気を博した。出版社として有名な講談社が、最初は講談の内容を本にした「講談本」を出していたが、それが人気を呼んで大手出版社になった!というエピソードがあるほどである。

しかし講談は明治末期の浪花節登場、昭和に入って漫才の人気などに押され、次第に凋落。第二次大戦後、GHQによって仇討ちもの、忠孝ものが上演禁止とされたのは決定的打撃だった。テレビの普及も追い打ちをかけた

講談へ逆風の中、その歴史の継承を使命とした南鶴師匠

そんな逆風のなかで、元来の芸好きであった南鶴は講談師となったわけだから、よほど講談に惹かれたに違いないと思う。

南鶴師匠の語る古典の講談がYoutubeで公開されていた。
ありがたい時代である

『講談研究』を集大成

さて南龍は死の3年前、1965年に『講談研究』という230㌻に及ぶ本を編者として出している。どうも自費出版のようだ。
直木賞作家にして癖の強い名物評論家で、演芸プロデューサーのアンツルこと安藤鶴夫に「序」を書かせ、35人の講談師の「私の履歴書」を70㌻にわたって収蔵している
。当時存命の講談師全員だったのだろうか? 彼への当時の講談界の信望の深さのほどがうかがえるのかな?と思う。

田辺南鶴師匠

他のゲスト執筆陣は皆、故人ばかりだが、次の陣容となる。

◆講談好きの政治経済記者・有竹修二
未だに講談界のレジェン旭道南陵(wikiなし)
◆『古典落語全集』編者・今村信雄
◆『古典落語 志ん生集』編者・飯島友治
◆文壇では孤立していたが無類の寄席通にして研究家。桂米朝が一番先に弟子入りした先生でもある正岡容
◆神田流門下の無名人物?神田伯鱗(wikiなし)
◆多摩老(wikiなし)
◆『この女を見よ 本荘幽蘭』(安藤礼二、江刺昭子共著)に名の見える本荘幽蘭
本牧帝の経営者・石井英子
◆子のような弟子の?田辺孝治(wikiなし)

芸能好きで知識も厚い中堅どころの、濃いキャラクターが顔をそろえているのかな?という私の印象(知ってる方は教えてください)。誰が『講談研究』出版の企画を言い出したのか、いずれ南鶴の熱意にほだされて稿を寄せたのではないかという感じがする。

南鶴自身も、「講談師番付(凸版六葉)解説」「講談三先生」「各派の読み物」といった章の筆を執っている。講談界にどんな人々がいてどんな芸風だったのか、どんな出し物があったのか、講談の存在感が薄れている中で、自分がきちんとまとめ、記録しておかなければならないという使命感があったのではないかと感じるほどである。

さらには、南鶴師匠は新作の講談にも意欲的に取り組まれたようで、その創作「曲馬団の女」など、現在も演じられている。

田辺南鶴師匠原作、「曲馬団の女」。戦後の混乱期に
見られた人情を語っている。これは講談のかたちでなく
一人芝居として翻案し、演じられている

江戸のれん講談宝井一凛「曲馬団の女」

ネット空間に残しておく大切さ

上記の『講談研究』執筆陣のうち、wikipediaに名前のない人々も散見された。現存の芸能関係者、例えば落語家などであれば、どんな入門したての末席弟子であってもwikiに項目が記されている。一方、こういう昭和、平成を担った中堅どころの項目さえwikiに作成されていないのは、chatGTPにも参照されるようなネットの時代に、大変な情報の欠落のように感じる。

お仕事でキリスト教に触れるが惹き込まれた?

さて、南鶴は講談師となり、その芸人人生のさなかに、まさにその芸能の仕事を契機としてクリスチャンになった。
1960年(昭和35年)、65歳にして、日本基督教団・銀座教会で洗礼を受けている。そのきっかけはAVACOアバコが講談による「信仰偉人伝」を企画し、野田市朗牧師(芸名 春風イチロー:ロゴス腹話術研究会創始者2015年逝去)(wikiなし)を通して白羽の矢があてられたこと。

AVACOとは Audio:聴く、Visual:視る、Activities Commission:事業部の頭文字のつづりあわせ。キリスト教視聴覚センター
1949年発足当初は、NCC:日本キリスト教協議会の聴視覚事業部であった。1955年、財団法人基督教視聴覚センターとして法人格取得。2013年、一般財団法人キリスト教視聴覚センターへ移行、2019以降、一般財団法人日本聖書協会の傘下に入ったかたち。
そのAVACOスタジオ(東京都新宿区西早稲田)は、かつて青山にあったこともあった。高クオリティなスタジオとして業界にあっては知られ、活用されてきたようだ。

AVACOの「講談 信仰偉人伝」

さて、AVACO制作による講談「信仰偉人伝」について手がかりがつかめないかとgoogleで検索してみても、何もヒットしない。
きっと、カセットテープなどにまで商品化された、南鶴師匠の語っている音源があるはずだと思うし、ぜひ聞いてみたいのだが、いまのところ、何の手がかりもないのである。

このままでは、現代日本キリスト教史を研究して見ようと思っても、南鶴師匠の語った講談の、キリスト教信仰偉人伝というものがあったという事実すら消し去られてしまっているわけだ(だから私が「この」記事を書いている次第である)。
これはおそらく講談界、ひいては日本の古典芸能界の歴史を紐解くにおいても大きな手落ちとなってくるのではないかと思う。講談復興の風も吹く今日、この方面にも関心が寄せられんことをと願う。

講談 内村鑑三伝はどんなだったか?

さて要するに、講談界の大御所、田辺南鶴師匠は60歳の還暦を超えてから、初めてキリスト教ということに、講談の「お仕事」を通して触れる機会があり、どういうわけだが自分がクリスチャンになって洗礼まで受けてしまったという歴史の事実である。

そしてクリスチャン新聞の記事によると、洗礼受けて後、師匠は、「内村鑑三伝」「山室軍平伝」といった新作講談を語っている。

内村鑑三


山室軍平

内村鑑三は言わずと知れた、明治以降日本社会で名のしれた思想家十傑の一人で、日本社会に大きな影響を与えたクリスチャンである。その「闘い」多き波乱万丈の人生を南鶴師匠がどう「語った」か、ぜひ聞いてみたい。山室軍平も、キリスト教の信仰の実践を福祉事業といった形で実現した救世軍の、日本における創始者であり、その著『平民福音』は、一般大衆にキリスト教の真髄を分かりやすく記したものとして評判を取った。そういうものを講談に乗せたらどんな風になるか、わくわくするような話ではないか。

現在、新作落語で信仰偉人伝語る人もある

現在、アマチュアの落語家、「ゴスペル亭パウロ」こと小笠原浩一さんという方が「福音落語」として「賀川豊彦」「山室軍平」「ヴォーリズ」「新島襄」伝などを語っておられる。
講談とジャンルは異なるが、日本のクリスチャン伝を新旧聴き比べてみたい、というような思いもする。

戦後キリスト教と、芸能の接点の歴史掘り起こしを

また今回書ききれなかったのだが、どうやら先に出た「腹話術」という芸そのものは、落語家さんらの余興、余芸的なものに過ぎなかったのを一つの芸能のジャンルとして、技術的にも組織的にも整備したのが春風イチロー(その正体は野田市朗牧師)のようなのである。

春風イチロー師匠が、講談の主な演席であった本牧ほんもく亭を引き立てて活動したことがクリスチャン新聞の他の記事にもあった。また、この記事に名前の見える山田二三雄牧師という方は、芸能人や実業家にキリストの福音をもたらしていこうという活動に取り組み、クリスチャン新聞記事にもなっている。

さらには、キリスト教プロテスタントと上方落語の思わぬ接点というものがあり、戦後長らく、大阪に落語専用の寄席がなかったところ、日本基督教団・島之内教会=中央区東心斎橋=を、上方落語協会の当時の会長・六代目笑福亭松鶴師匠らが「その日限りの寄席に仕立て」、落語会を重ねて行ったことが、戦後の落語の復興、興隆の礎ともなっていることは知る人ぞ知る事実なのである。

当時の島之内寄席の様子

このあたりについて、私もさらに発掘していきたいと願っている。

これはキリスト教にとってだけでなく、日本の文化史にとっても大事な事実の歴史だと思うからだ。

さらには、大阪の誇るユネスコ世界遺産文楽で2022年、最高位の「切場きりば語り」に任じられた、義太夫語りの豊竹呂太夫とよたけろだゆう師匠が、ここ20数年、ゴスペルin文楽(人形あり)、賛美義太夫(素浄瑠璃)に取り組み、朝日新聞など一般メディアでも広く知られるところとなっていることは申すまでもないことである(私が20年前筆を録った新作文楽の台本案《文楽 聖書物語「ヤコブ荒野旅」》というものがある。現在広く世に知られた文楽新約聖書物語「イエスの生涯」(台本:丹羽孝、川口眞帆子氏ら)同様、上演される日の来ることが待たれる・・・。蛇足ながら、私が「Webマスター」として2000年から始めたサイト「豊竹呂太夫のページ」。呂師匠が小まめに「旅日記」を書いている)。

『論座』に載った呂太夫師匠へのインタビュー

また晩年、牧師夫人である娘の影響でクリスチャンとなり、落語というものの創始者がその初代である大名跡を継いだ、露の五郎兵衛師匠、そして師匠が聖書に題を採った新作落語「放蕩息子」などを粋に演じたことを忘れることはできない。

なんか知らんけど、
一般財団法人日本推理作家協会の会員名簿に、「物故会員」として田辺南鶴師匠が紹介されている。なんで推理作家の名簿に講談師が? 「如水」って誰?黒田の親父か? 謎は深まるばかりである。

滋賀県生れ。はじめ二代目三遊亭金馬の弟子で、金平と名乗っていたが、講談に転じる。桃川如燕門下で如水と名乗ったあと、田辺南龍門下で十二代目南鶴となる。世話物のほか、明治以来の市井の事件に材をとった探偵実話やクリスチャンの伝記など、講談に新風をもたらした。また、講談寄席「本牧亭」の興行に寄与し、多くの後継者を育てた。


クリスチャン新聞1968年7月7日号

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