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イザナキとイザナミが淡島とヒルコを産んだ意味は何か?

『古事記』の国生みのエピソードでは、イザナキが「女から言ったために良くなかった。」と言うシーンがあります。水蛭子(ヒルコ)と淡島あわしまを産んだあとのシーンです。

これを、「男をさしおいて女から言うのはけしからん。」と解釈してしまって、『古事記』に男尊女卑を見る人がいます。

『古事記』には他に男尊女卑的な記述はなく、なぜここだけ?と不思議に思われてきました。また、男尊女卑は外来思想であり、中国向けの『日本書紀』ならいざ知らず、『古事記』に外来思想が混じるのは不自然です。

『古事記』を冒頭から読むと、イザナキの台詞セリフは別のことを意味していることがスッと入ってきますが、今回は、『古事記』を冒頭から読まなくても、それがわかるように、コンパクトに書いてみました。

これで今日からポリコレを気にすることなく、安心して『古事記』が読めます。そして、重大な秘密の一端に触れることができます。『古事記』が女性を下に見るわけないじゃないですか!

■国生みエピソードには不思議なところがある

イザナキとイザナミの国生みは、『古事記』のエピソードの中で最もよく知られているエピソードですが、いくつか不思議なところがあります。

イザナキとイザナミが、国生みの儀式をして、最初に生まれたのはヒルコでした。ヒルコは葦船に入れて流してしまいます。

次に生まれたのは、淡島でした。ヒルコと淡島は子の数には数えません。

そこで、イザナキとイザナミは、相談して、「今産んだ子らは良くなかった。天つ神の元に参上して申し上げよう。」と言って高天原に戻り、天つ神の命で占いをして、「女から言ったために良くなかった。天降あまくだりからやり直して言い直そう。」と言って、儀式をやり直し、今度は無事に次々に国を生みます。

なんで神さまなのに、失敗したのだろう?

それに、どうしたらよいか天つ神に尋ねるのはよいにしても、なんで占いなんだろう?

神話(聖典)というものは、あれおかしいな?というところには、意味が隠されているものです。ひっかかりがあると、人はそこで立ち止まって考えるからです。そして、その理由が意味を持ちます。これが神話(聖典)の特徴です。

例えば、聖書では、イエスが「右のほほを打たれたら、左の頬をも向けよ。」と言いますよね。やられたらやり返すのが普通なのに、おかしいな?というところが教えにつながっています。その他にも「善きサマリア人のたとえ」など、常識と違うことが教えとつながっているエピソードがたくさんあります。

『古事記』は、国家神道が大きく道を踏み外してしまった反動で、聖典として読まれることはありません。そのため『古事記』を読む際に、私たちには、おかしいな?という箇所の意味を考える習慣がありません。

字面じづらだけ読んだら、『古事記』は矛盾だらけです。それを矛盾のまま受け入れてしまったら、『古事記』のメッセージを受け取ることはできません


■国生みの失敗が伝えたかったこと

話しをもとに戻します。

なんで神さまなのに、失敗したのだろう? については、失敗で明らかになった事、失敗によって起こった出来事に、すべて意味があると考えます。

失敗で明らかになったのは、「女から言ったために良くなかった。」こと、失敗によって起こった出来事は、ヒルコと淡島の誕生です。
この2つはセットです。

よく、「女から言ったために良くなかった。」という言葉に現代風の解釈をして、男尊女卑のエピソードだと解釈する人がいますが、違います。

なぜなら、「良くなかった」は、ヒルコと淡島の誕生を指しているからです。

もし、「良くなかった」が指していることが国生みの失敗なら、ヒルコが産まれたときにイザナキとイザナミは気がついて、天に戻ったはずです。
それなのに、ヒルコのあとに、淡島を産んでいます。
つまり、ヒルコを産んだ時には、イザナキとイザナミは天に帰るほどの失敗をしたとは思っていないことがわかります。

2連続で、未熟児を産んでしまったことで、ようやく気がついたのではないかと思われるかもしれませんが、それも違います。

問題は、ヒルコ→淡島の順番にあるのです。

やり直した国生みでは、イザナキとイザナミは、島々を産んだ後で神々を産んでいます。

ヒルコは神の未熟児で、淡島は島の未熟児です。本来は、島→神の順番のはずが、神(の未熟児)→島(の未熟児)の順になっていることに、淡島を産んで気がつき、「良くなかった」という理解になったのです。

いやいやいや、島→神の順番に産むのが正しいなら、最初に神の未熟児であるヒルコが生まれた時点で、間違いに気づくはずではないか?
そう思うかもしれません。でも、これも間違っています。

イザナキとイザナミは、淡島を産むまで、いや、やり直して国生みをするまで、島→神の順番が正しいと気づかなかったのです。

神の子は、普通に考えれば神です。神の子が「島」であるのは普通ではありません。

イザナキとイザナミは、「この漂える国をつくろい、固め、成せ」という命を受けて国生みに至ります。
島を産めとは言われていないのです。そのため、神の子として神ではなく、島が、それも未熟児の淡島が産まれてきて始めて異常事態に気がつき、占いの結果を受けて、島→神の順に国生みするのが正しいと知ったのです。

順番が逆になってしまったことが異常事態です。このことから、「女から言ったために良くなかった。」というのは、男尊女卑の発言なのではなく、プロトコル(意味のある手順)が間違えていたことの指摘だと解ります。

実際、『古事記』には、この箇所以外に男尊女卑の記述はありません。この箇所も男尊女卑ではないので、『古事記』と男尊女卑は無縁と言うことができます。

『古事記』を一文字めから丹念に読んでいくと、なぜここでプロトコル(手順)の重要性を示すエピソードが入ってくるのかが解ります。

国生みという、新世界を創るには、そのための「意味のある手順プロトコル」が重要なのです。

女性の記号的(神話的)な意味は、自らに生命を産ませる他の存在を、受け入れる存在です。新世界を創造することは、受け入れることとは真逆の働きです。

それゆえ、神の世界である高天原と別の場所に、新たな世界を造るきっかけは、機能としての男性でなくてはならないのです。(*下記註)

つまり、国生みは男の声かけから始める必要(「意味のある手順プロトコル」)があり、失敗のエピソードによって、そのことが強調されているのです。

国生みが成されるための「意味のある手順プロトコル」は、モチーフとして、別天つ神→神世七代→国生みと繰り返されています。

このモチーフの繰り返しの意味は何か、興味のある方で長い文章が苦にならない方は、ぜひ、「『古事記』通読」も読んでみて下さい。ただし本当に長い連載なので、無理にはオススメしません!モチーフの繰り返しの意味については、そのうち改めて短くバシッと書くつもりです。

長くなってしまったので、ここまでにします。

読んで何かしら気に入ったらスキを押してもらえると嬉しいです。 

次回は、イザナキもイザナミも神なのにどうして占いをしたのかについて書きます。


見出しの画像は、UnsplashのRobert Meansが撮影した写真から

*註

神々が新たな世界を創るトリガーは、機能としての男性であることは、以下に詳しく書いています。が、長いし、ちょっと硬い書きぶりなので、どうしても気になる方にだけご参考まで。


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