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被害者の心情に寄り添えないスピ系おじさんの善意

パワハラやセクハラ、レイプ被害者(未遂含む、悪質な待ち伏せとかも)、また、いじめの被害者に対して、被害にあう方も悪いという論調が根強く絶えないですが、これには、ある「気分」の問題が起因しているのではないか、だからいくら当事者や第三者がそうじゃないと説明しても平行線になるのではないかと思い当たったので以下に書きます。


●いきなりの占い

最近、ある中小零細企業経営のおっさんばっかの飲み会に、遅れて参加したことがありました。

参加者の一人が企業経営のかたわら占いをされていて、しかもかなり著名な方ということで、凄い凄いと盛り上がっているタイミングで席に着きました。

遅れてきた罰?で、皆の前で公開占いをされることになりまして、生年月日を聞かれて答えると、「父親がかなり大変でしたね。」と言われ、ついはずみで「親父は戦中の捨て子なんでまあそうですね。」なんてプライベートなことを言ってしまいました。

その後は無難に盛り上がり、会は楽しくお開きになったのですが、家に帰ってひとっ風呂浴びて寝ようとしたら、会の参加者の一人(以下、Aさんとする)から、いささか長文のLINEメッセージが届きました。Aさんは、自社の経営のかたわら、自治体から他の企業への経営上のアドバイスをする業務を請け負っているような人ですが、パワーストーンを身につける程度にスピリチュアルな人でもあります。成功されている中小零細企業経営者には、このようにゆるい感じのスピリチュアルな方々がけっこう多いように思います。


●スピリチュアルはビールに似ている

私は、大学の時に文化人類学を少しかじったせいか、ついついスピリチュアルな人を見ると、その思考の構造を分析してしまうクセがあります。

スピリチュアルは、ビールに似ているところがあります。最近のクラフトビールの流行で知られるようになってきましたが、ビールの種類はとても多様です(軽く100を超えます)。
それなのになぜか、日本では圧倒的にラガーが人気です。スーパードライも一番搾りもプレミアムモルツも黒ラベルもみんな種類はラガーです。
クラフトビールのブームが来るまでは、ペールエールだとかベルジャンホワイトだとか、IPAだとか、ラガー以外のビールを知っているのは一部の好事家のみでした。

スピリチュアルな方々のタイプも、ビール以上に豊富であることは宗教人類学の常識ですが、日本で圧倒的にメジャーなのは、論理と感性を対立する概念として捉え、「スピリチュアル=感性」と信じて疑わないタイプです。

しかも、そのタイプのうち、感性を掘り下げるより、最初の直感の方を絶対視するタイプが多いように思います。

最初の直感を論理の力を借りて検証していく、つまり、論理を感性を磨くツールだと考えるスピリチュアリストは少数派な気がします(両輪くらいに考えている人は、まあまあいるように思いますけれども、一体不可分と考えている人は少ない気がする)。

ところが、日本にいると意外に思えるかもしれませんが、キリスト教圏では、論理を神の恩寵と考える方がメジャーですし、感性を全く否定する教派も少数派ではないのです(理解しがたい方は、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでみるとわかりやすいです。この本は、欧米スピのガイドブックとしても読める優れものです。なんてね)。このあたり日本と対照的なのが興味深いです。

私はIPAかな。さておき。


●丁寧なメッセージ

AさんからのLINEは、私へのアドバイスだったのですが、これは受け入れられないなと思ったものの、大変丁寧に書かれたメッセージだったので、その誠意への感謝の気持ちもあって、少しメッセージのやり取りをしました

Aさんは、私の発した「親父は捨て子」に大変違和感を覚えたそうです。「きっと違う!」私の父が「勝手にそう思っている!」という思いが、Aさんに直感的に降りてきて(本人がそう書いていらっしゃいました)、伝えなくてはという使命感に駆られて、私にLINEを送ったそうです。

いわく、戦中の混乱期に生きるか死ぬかの日々を過ごしていたであろうあの時代に、離れ離れにならなければ自分たちも子どもも生きていけないという、今の私たちには想像も出来ない切実な事情があったのではなかろうか。
引き上げてくる際に、何らかの理由で離れ離れになってしまったり、子どもの命を守るため、離れるという選択肢しかなかったかも知れない。それは、決して捨てるということではないはず。
まだ小さかったので捨てられたと思ったのかもしれないが、そう思われてしまったことを、苦渋の決断をした天国のご両親が知ったら、とてもつらく悲しいのではないだろうか。
御尊父が、自分は捨て子だという思いを解消できたらよいが、不可能なら、あなたが代わって御尊父の御両親の気持ちを汲み取り、捨て子などという響きーAさんは波動という言葉を使ったーのよくない言葉は使わず、先祖供養に務めるのがよいのではないでしょうか。云々。


●心理的解決指向には同意できない

私からは、「波動のよくない言葉」の解消を求めるのは、解決法としてよくないので賛同しかねるとリプライしました。墓参りにもちゃんと行ってるしね。(Aさんには、丁寧に心を尽くして説明したので、私の気持ちは伝わったようでしたが、中身がどれほど伝わったかはわかりません。)

「勝手にそう思っている!」その「勝手な思い」を解消してしまうことで、言葉の良くない響きを解消してしまうことは、「勝手にそう思っている!」人の心理の変化によって問題を解決しようとすることです。

Aさんからのアドバイスは、加害者には、やむにやまれぬ事情があったのだから、被害者はその加害者の事情をおもんぱかって被害者意識を解消することで、被害者は被害者であることから脱することができる、救われるというロジックです。

Aさんは皆が認める善人です。いただいたLINEも大変丁重なものでした。そんな、Aさんのようなロジックの「善き心」をお持ちの方が、このロジックのままに真摯に問題に向き合えば、そりゃあパワハラもセクハラもレイプもいじめも、被害者に対して被害にあう方も悪いという論調が根強く絶えないはずだよなあと嘆息たんそくしてしまいました。

仮に、本当に加害者にまったくそのつもりがなかったとします。その場合、被害者の受け取り方が変わることで、被害者が「勝手にそう思っている」状態から抜け出し、加害者の「まったくそんなつもりがなかった」という気持ちに同化することで、被害者の被害を受けた気持ちが解消され、被害者がいなくなるというのは、はたしてめでたしめでたしなのでしょうか?


●日本大好きAさんのため、あえて『古事記』で考えてみる

Aさんの大好きな、そして私も大好きな『古事記』の時代の日本の思考法でこのことを考えてみたいと思います(Aさんへのリプライにも書きました)。

『万葉集』の柿本人麻呂の歌(2-167)に、神々が物事を解決しようとする描写があります。「神つどひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に、」というものですが、神はかりは、「神分り」と書きます。問題解決には、徹底して(つどいにつどいはかりにはかる)、複数の視座視点(神集ひ=神々は烏合の衆ではないので、それぞれが全く違う個性の固まり)から、分析する(=神はかり)というのが、神々が伝える古代の日本の問題解決法のようです。

そこで、まず、Aさんの思考を分析してみます(神はかり)。


●一人の思考に合わせるのは『古事記』的ではない

Aさんは、老父の両親の事情のみに集約して問題の解決を図ろうとしています。
父が「勝手にそう思っている!」のは事実かもしれません。しかし、「勝手にそう思っている!」のは父だけではありません。
父の両親も、父の話を聞いた私も、その私の話を聞いたAさんも、皆それぞれに「勝手にそう思っている!」のです。
誰かだけが「勝手にそう思っている!」と決めつけるのは、古代日本の発想ではありません(複数の視座=神集ひにならない)。

以前に「スサノオは、なぜ母を思って泣いたのか」で書きましたが、『古事記』の思考では、親の視座も子の視座も等価です。
誰か一人の立場の「勝手にそう思っている!」に、他の当事者の立場を合わせようとするのは、『古事記』的ではありません。
もっと言えば、それは、一神教的ですらありません。一神教が合わせようとするのは、超越的な第三者である唯一絶対神のみで、誰か一人の当事者ではないからです。

Aさんが、私の老父ではなく、老父の両親(私の血縁上の祖父母)の気持ちをとりわけ重視したのは、より年長者への孝を尊ぶ儒教の影響かと思います。
本来の神道を『古事記』に見るのなら、儒教もまた「からごころ」であるということになろうかと思います。


●「言葉の波動がよくない」という魔女狩り

次に、Aさんが言った「言葉の波動」についても考えてみます。

Aさんの思考のきっかけは、「捨て子」という言葉の響きがよくないというものでした。これは、言霊信仰のようですが、「捨て子」を言い換えようとしていることから「言葉狩り」の衝動が隠されています。
「言葉狩り」は、言葉を少なくする運動ですから、「言霊のさきわう」状態を損ないます。

加えて、「よくない波動」と断じていますから、ヤマトタケルが伊吹山の白猪を神の使いだと根拠もなしに断じた(本当は神そのもの)のと同様に、これは「言挙ことあげ」です。
現代人は、「ことあげ」を、物事をはっきりという、理屈を言うなどの意味で使いますが、これは『古事記』に書かれている「言挙げ」ではなく、単なる強者の立場からの言論封殺です(『古事記』原文で確かめることができます)。
ヤマトタケルは、言挙げの為に命を落とします。つまり、根拠もなしに思い込みで断ずるのは、致命的な禁止事項なのです。

それに、「捨て子」という言葉の響き(Aさんの言葉では波動)は、つまり空気の振動ですから、それに善悪を固定するのはナンセンスです(感じ方は人それぞれ、視座視点は複数。もちろん敢えて口にすべきでないような言葉はありますが、それは文脈で決まります。単語単独の響きにすべてを負わせることはできません)。

「言葉の波動がよくない」というのは、言霊に偽装した魔女狩りで、とても西洋的な発想(しかも西洋はそれを克服してきている)だと思います。


●「直感気分スピ×儒教」では罪が再生産される

このように見てくると、Aさんは、儒教思想に偽りの言霊信仰が融合した発想のもと、最初の直感にこだわった自分の気持ちを唯一の拠り所にして、響きの悪い言葉を心理的に解消することで心の平安を得ようとしていることがわかります。

儒教道徳を前提に、最初の直感で感じた心のモヤモヤが晴れて気分爽快になることと、穢れが祓われた状態になることとを同一視している、いわば「直感気分スピ×儒教」型です(これが「のどごしスッキリラガー」くらい日本のスピのメジャーなのではという危惧があります)。

儒教は、「女子と小人とは養い難し」([現代語訳]女と徳の無い人間は扱いにくい)というフレーズがあるように男尊女卑的なところもある思想です。
現代の神道はともかく、『古事記』の時代の神道には男尊女卑はないと言えるかと思います(国生みはどうなのよという声が聞こえてきそうですので、このことは、また稿をあらためて書きたいと思います)。
また、儒教で大切にされる「忠」は、権力を持つ側への忠心を意味するものとして日本では受けとめられてきたという経緯があります。

そう考えれば、今回の「捨て子」とパワハラ、セクハラ、レイプ、いじめの被害者へ責任を問う根強い風潮は皆同一構造であることが明らかです。
もちろん「捨て子」の原因は先の戦争ですから、なおさら一つの視座に寄せてしまうことへの批判はあってしかるべきだと考えます(全部日本が悪かった式の自虐史観と、あれは全部仕方なかったんだ式の自尊史観のどちらかを選べという二択の歴史観は、どちらも過去への冒涜と思います)。

それぞれの「勝手にそう思っている!」を心理的に解消させようとするのではなく、それぞれの「勝手にそう思っている!」を、それぞれの心的事実として受けとめて、一方的に断罪することをせず、再発せぬよう構造的に捉えて根本的な問題解決を図るのが、いにしえの日本の教えです。

そして、それが容易ではない(『古事記』の時代の神々の智慧は、日本の社会からとっくに失われています)からこそ、現代には公正明大な法的解決が保証されなくてはならないし、法的解決がそぐわない問題に関しては、からごころを排し、親よりは立場の弱い子、加害者よりは立場の弱い被害者の「勝手にそう思っている!」に寄り添うのが重要なのではないでしょうか(もちろん逆に、加害者への関係の無い第三者による無制限な断罪、ネットリンチを避けるためにも、社会に公正明大な法的解決が保証されていることが重要です)。

もちろん、儒教的な親孝行を実践する善人な方々を否定するつもりはなく、数多くの多様な善の実践が併存すべきだと思っていますし、それこそが八百万の神の精神だと思っています。

ただ、特に日本大好きな我々は、自分が「直感気分スピ×儒教」の毒に犯されていないか、厳しく問うべきなのかなとは思います。

罪を憎んで人を憎まず。人を愛して罪は隠蔽せず。
心理的な解消では、罪を成した構造が放置され、再発に対して無策です。
罪を見たら、目を背けず、無かったことにしないで、徹底して様々な立場から分析して再発を防止するのが『古事記』が教えてくれる日本の本来のいにしえの智慧ちえなのです。
神社大好きな人たち、『古事記』の神々が見てますよ!

気づきを与えてくれたAさんにあらためてここに感謝するとともに、Aさんに、そして多くのAさんたちに『古事記』の知恵への気づきの時が訪れますように。どの視座も無視されることなく尊重される世界を祈って。 神辺菊之助記す

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