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「わかってほしい」気持ちと「解決したい」の距離

息子の小1からの友達Ken。息子と同じ自閉症の診断を持ってる。

Kenには「怒り」の感情がない。
ないっていったら語弊があるかな。
「自分の気持ちを表現するのに”怒り”を使う選択肢がない」って言う方が近いかな。

とにかく、Kenは怒った事がないんだよね。
例えば、みんなで遊びに行く場所を相談している時に、自分の意見がことごとく却下されてる状況で「もう!僕は○○に行きたいのに!!!」って言っても良さそうな場面でも、それを怒りで表現しないんだよね。その代わりに「あ~僕の意見もきいてほしいな」「だれか聞いてくれないかな」「チャビ君なら僕の気持ちわかってくれるよね~」と言い続け理解者を求め続ける。

そんな場面を見てる大人は、「じゃんけんで決めたら」「多数決にしたら」ってその場をうまく解決しようとしがちだけど、Kenはそういう時いつも言うんだよね。「違うんだなぁ~。僕は僕のはなしをきいてくれる人がほしいんだなぁ~」って。

そんなKenを見てると幼かった頃の息子と重なるんだよね。
今でこそ「あいつには腹が立つ!」とか「これは許せない!」って怒りの感情を表出するようになった息子だけど、昔は”怒り”よりも「自分の事をわかってくれない辛さ」にフラストレーションを感じて、それを悲しい感情として表現してたんだよね。「自分の思い通りにならない怒り」よりも「自分のことをわかってもらえない悲しさ」。

パニックはまさにそんな感じだよね。怒りじゃない。辛さ・悲しさ・わかってもらえないフラストレーションの表現。

発達障害の人たちは、こんな「わかってほしいのにわかってもらえない」フラストレーションを日常的に抱えてるんだと思うんだよね。

息子にアスペルガーの告白をした後から、息子が度々口にするようになったのは、「僕は、僕のことわかってほしいんだよ。わかってくれる人がふえてほしい。障害があって辛い事もあるけど、僕は僕が好き。だから治してほしいなんて思わない。僕のこと変えてほしいわけじゃない。僕のこと、理解してほしいだよ。だから僕のことをわかろうとしないで、変えようとする人がいたら悲しくなる」と。

Kenにしても、息子にしても「大人がよかれと思う自分の意思そっちのけな解決」より「理解者」を求めてるんだよね。

でも、時として大人や支援者は、”その子の気持ちの理解”や”その子の気持ちに寄り添う”ことよりも「事態を解決する」ことに躍起になりがちなんだよね。

例えば、不登校の子がいたら、大人は「不登校」を解決するのに躍起になるケースが多いよね。「なんとか学校に行ってもらいたい、学校に来てもらいたい、解決してあげたい、解決したい」。

でも不登校の子からすると「自分の気持ちがわかってくれる人がほしい」「私の気持ちを理解してほしい」であって、「学校に登校する」っていう大人からみたら「解決」だけど、子供にしてみたら「まず、私の気持ちによりそってほしい」なんだと思うのね。

字が覚えられない・書けない子の場合、大人は「書けるようにしてあげたい」って解決を求めちゃいがちで、「この方法はどう?あの方法はどう?」と解決する為にあの手この手に一生懸命になりがちだけど、子供にしたらまず「書けない悔しいきもち」「頑張っても頑張ってもできないフラストレーション」に寄り添ってほしいかもしれない。

こんな風にね、「その子がわかってほしい気持ち」と「大人にとっての解決」は、イコールじゃない事って多いと思うんだよね。解決を急ぐと、子供が本当に求めている事が置き去りになっちゃうかもしれない。

「あ~僕のきもち、きいてほしいなぁ」とちょこんと私の横に座ってきたKenを見ながら思ってたことを書いたのが、今日のnote。


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