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語る「べき」ことはないが語られる状況にあるということ

なにひとつ、明らかにされないものはない。語られない状況はない。閉じられたままの扉はなくて、呪いのひと蹴りでむりやりこじ開ける。忘れたいと願っている恥ずべき廊下にさえ、立ち入ってみせる。どんな堕落も、どんな罪もおそれない。語る罪は赦されている。語られる生は救われる。聖ジグムントも、聖カロルも聖ヤコブも、わたしたちにこれを教えているのではないの?話すことを学ばぬものは、永遠に囚われの身のままなのだと。

オルガ・トカルチュク著・小椋彩訳「逃亡派」p.178

言葉のキャッチボールをするのはたいていの場合、初対面の誰とでもできるが、それが自身の望む力加減や方向性かどうかは相手が限られてくる。思っていた反応がなかったり、何も言葉が届いていないと感じることもあれば、逆に相手の言葉がじぶんの耳からすり抜けて別のことに注意が向いてしまうことだってあるだろう。

それでも語ることを諦めず、向き合い続ける。そこに人間性が問われているのだと信じながら。



怒涛の日々を乗り越えて、久しぶりにこうやって文章を書こうとすると、なにから書き始めればよいかわからない。いつも書くことは脳内のじぶん語りを文字起こししているようなものなので、特に語るべきことがないということかもしれない。そもそも「べき」などどこにもなくて、あるとすれば春が近づいてねこの抜け毛が増えたとか、ふきのとうが出始めてご近所さんからいただいたりとか、雪渓と河辺が眺められる素晴らしい場所を見つけたりとか、そういう日常の些細なできごとは、いましかない、記述しておく「べき」春の事象だろう。

春。フランス語でいえばPrintemps.

ラテン語の「primus tempus(最初の時・最初の季節)」から派生した語。花が咲く最初のとき、はじまり、スタートの季節。
20代の頃はひたすら目の前の日々をこなすだけで精一杯だったが、歳を重ねるにつれてどんどんと自由になっていく感覚は30代を過ぎてから。知識や経験を重ねて、さらなる挑戦を続けていきたいとモチベーションも高まる。「もし実現できたなら、どんなに喜ばしいことだろう?」「その先に味わえる感情はどのようなものだろう?」こんな期待をしながら夢想する目標が、いまのじぶんを支えていく。

そういえば昨日、外出前にリビングの窓を閉めようとしたら窓の外に茶色い動物が走り去る様子を目撃して一瞬、時が止まった。

たぬきか?いたちか?

いや、うちのねこだ。

見たことのない猛ダッシュでまるでPUMAのアイコンのように胴体が長かった。脱走したのだ。急いでいるというのになんてこった。

家の外に出て、ぐるりと一周まわっても見当たらない。

どうしたものか、野生動物と喧嘩して食べられてしまうじゃないか。それかねずみを追いかけて山で行方不明なんかになったらもう探せない…。途方に暮れ、振り返って縁側のベンチを見ると、その上にまるまってこちらを眺める茶色いかたまり。なんだ、こんなところに。きじとら柄で枯れ草やベンチのくすんだ色に同化して見落としていた。脱走したはいいが小心者だから遠くに行けないねこ。好奇心旺盛だから外には出たがりのねこ。
すんなりとわたしに捕まり、怒られるのが怖くて暴れたが無事に家の中へ連れ戻した。その後はぴゅっと急足で、じぶんの部屋に立てこもった。

春だからね、外にも出たくなる気持ちはわかるのだけれど。

ねこの脱走には気をつけよう。これは重大な語る「べき」ことのひとつだったかもしれない。

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