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たいしたことある日々のこと230528

「世の中いろんな人がいるよね」。

この言葉は、それを発言する現在の今目の前に見えている人の総数から繰り出される暫定的結論であり、生きていればそれ以上にどんどんと、その母数は増えていき「いろんな人」の振り幅が大きくなっていく。だからその「いろんな人がいる」という言葉の重みと意味合いは、年齢を重ねれば重ねるほどに変わっていく。

今30代半ばとなった自分の身の回りを振り返ってみても、いろんな価値観、捉え方、思想の人間がいるのだなと日々誰かと出会うたびにつくづく感じる。どれが正義で間違いかなんて言えないなと、確証を持てなくなってくるのがまさに年老いた証拠なのかもしれない。

誰かにとってそれは正しくて、誰かにとってそれは間違っている。
ただただ視点が違うだけの話。

しかし自分自身の生き方において違和感や嫌悪感を覚えることには素直でありたいと常に思い続け、最近あった気持ち悪かった出来事をどうにか整理したくてもやもやしている。書いてみてうまく分析できるだろうか。



先日、日本に住むとある外国人が、在日外国人に対して日本人としての振る舞いを求めているツイートを目にした。

外国に暮らしている自分からして、「日本はいいとこがあるし、悪いところがある」「外国にもいいところがあるし、悪いところがある」のバランスに偏りがある人をみると、純粋にその言葉を受け取れず、盲信的なその姿勢に懐疑心を抱き裏側に忖度する必要のある事情があるのかなと勘繰ってしまった。日本に馴染もうという発言は、それは「郷に入れば郷に従え」“When in Rome, do as the Romans do” なわけだが、ただでさえ同調圧力の強い社会の中で「同じであれ」と在日外国人に訴えることは、没個性没人格没人間性を求めるようなものに近い。
「日本ではこうあるべきだよ」という思想を提唱し続けるとするなら、できる限り静かで穏やかで害のない外国人にならなければならないということ、なのだろうか。

一方そこで言われた外国を、じゃあフランスと仮定して「フランスに住む日本人が、『あなたはフランスにいるならフランス人としての振る舞いをしよう』(つまりは文句はいってもあらゆる問題があれど「C'est la vie(それが人生)」だよねと捉えよう)」論を見たとするならば、同意する部分はあれどやっぱり何言ってんねんと反発してしまう。なぜ外国人としてのあなたにその国に馴染むよう求められなければならないのかと。フランス人に言われるならまだしも(いや、言われても知らんがなとしか言いようがないが)、「同調していこう、わたしたち同じ移民なんだから気をつけよう」と言われても、「あなたはそうしたらいい。わたしはわたしの生き方でこの国と向き合う」としか言いようがない。

いつだって、あらゆる違いが、混ざる方が面白い。

個性や考え方、違っているのが当たり前。
その上でコミュニケーションをとって、変わり続けることが新たな考えを生む。変だと思う行為があれば、心に留めず声をかければいい。例えばよくある話だと温泉地で身体を洗わずにお風呂に入る外国人がいたとするならば、声をかけて「先に身体を洗うんだよ」と言えばいい。列に並ばない外国人がいたら「ここ並んでね」と声をかければいい。そこから会話も生まれるかもしれない、仲良くなれるかもしれない。人間のコミュニケーションが生まれるわけで。

最近でもコンビニで40年も日本に在住しているという外国人が、年齢確認のボタンに憤って店員に怒鳴りちらすという動画がTikTokなどで回っていた。もし自分がその場にいたスタッフだったら「おっちゃん20歳以下に見えへんからボタン押しとくわ」としてただろうな、と思う。

日本人はルールを守る国民性で、企業の規則だって当然守る。でも「今、目の前にいる人は一体何を求めているんだろう」と想像し言葉をかけることは人間にしかできないこと。そのSNSで拡散された外国人が「あななたちはロボットか」と問い詰めたのもわかる。ルールですから、と切り捨てることの先に何があるのか?じゃあ全部機械で人間いらないよね、となっちゃうよね。

ルールを大切にするのは悪いことじゃない。
でもルールなんて所詮人間が考えたもの。
だったら人間がいつだってそのルールを再定義してもいいんじゃないの?

まあ冒頭の「世の中いろんな人がいるよね」で終わればいいのに、いちいちこうやって書いてしまうのはわたしもスルーできない性分で面倒な人間。なおかつ本人に言いたいわけでもないし、自分がなぜ違和感を覚えるのか掘り下げて考えてみたかった。

日本のYouTuberを見たりやいろんな人と話をしたりすると、「周りにどう見られるか」を意識してる人が多いから、そういうところからみなが自由になれたらいいのになと心の底から思う。
「他者視線からの解放」みたいな自己意識に縛られたところからわたしが自由になれたのは紛れもなくフランスのおかげなので、フランスには感謝をしつつ、とはいえ行政への不満もありつつ、そのシーソーをがたがた揺らしながら、良いも悪いもの間を揺蕩いながら。

そろそろ5月が終わろうとする。
ああ、たいしたことある日々の連続だ。

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