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「何故学ぶのか」責任ある自己決定と他者尊重の育成という教育の理想を共有しよう

「自分自身の人生(選択)に責任を持つこと」「人間相互の自由を尊重し合うこと」というのが、教育(具体的には「人格の育成」と言い換えても良い)が目指すべき理想だなあ、ということを再確認させられる出来事があった。

具体的には触れないけれども、自分が痛い目にあったり嫌な思いをしたりすると、どうすれば同じことが起きないようになるかについて、自ずと考えさせられる。「己の欲せざる所人に施す事勿れ」(『論語』顔淵)とは、人間の理性・知性たるを端的に表現した至言だ。

「生涯学び続けること」は、上記の理想を達するために必要不可欠であって「学ぶ」ということは目の前で起こった出来事を一旦受け止めたうえで知識と経験に基づいて(批判的に)結論(成果)を導き出す(創造する)ことに意義がある。

人生経験少ない子どもがそういうサイクルを生み出す練習をするための手段として、教育の役割がある。孔門の思想家(特に荀子)が「仁」(=愛)を体得するために「学」を重視したのは理にかなっている。何も学ぶことなく大成した人を少なくとも私は知らない。

哲学や歴史学などの人文学が軽視されていることについてかなり前から懸念を抱いていたけれど、人文学を軽視するということは、学びに向かうための考え方の基礎が欠落することにつながりかねない危うさをはらんでいる。

まずは「学び」によって達せられる理想を共有することから始めるべきである。そうでなければ、どうせ勉強なんて意味がないという身も蓋もない方向に話が進んでしまう(「勉強」と「学び」を区別する考え方もあるかもしれないが、ここではあえて区別しない)。

とかなんとか綺麗事を並べてはみたものの、改めて考えてみると、理想を共有するというのは口でいうほど簡単ではない。そもそも、理想が共有できないところに断絶が生まれる。戦争や虐殺、差別などの大きな問題から、些細なすれ違いや意見の衝突といった小さな問題まで、枚挙にいとまがない。それならば、結局何をどうすれば良いのかわからなくなって、何もできない。

何もないとこから何かが生まれることはない。理想を共有することは決して簡単ではないとわかっているなら、初めからうまくいくことを期待せず、地道に壁を乗り越えていく作戦を展開するのが良いだろう。初めは「何故学ぶのかわからない」のは当然のこととして、教育者は伴走者のごとく、どこまでも向き合う姿勢を忘れないようにしたい。

人間が共に自由を分かち合い、個々の人生をより良く生きるためには、異なる音色を共に奏でながらハーモニーを生み出すことが大切だ。それには技術が必要で、一朝一夕にして身につかない。試行錯誤の末、あるときぐんとうまくなる。腕を落とさないためには日々鍛錬することを決して惜しまない。教育者自身が学び続ける姿勢を見せ続けなければならない。

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