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夏とアスファルト

午前8時。家を出る。
朝だというのに真夏が過ぎる。
身が炙られるような熱をアスファルトから感じる。
今日も徒歩15分。
職場まで歩かねばならない。

家から近いことを理由に選んだ今の職場は徒歩で快適に通勤可能で、普段は散歩感覚で足取り軽く歩んで行ける。しかし夏のこの時期だけは別だ。果てしなく続く一本道を苦行のように、嫌でも一歩一歩を意識しながら進むことになる。

照りつける太陽光。その暑さと眩しさに目が眩む。せめてもの抗いを試み日傘を開いて差した。頭上に陰りを感じ、少しの救いを覚える。しかし同時にじわじわと実感を増していく絶望に肩を落とした。
日傘があっても変わらぬ気温。
容赦ないアスファルトの照り返し。

「暑い…」

ため息に近いような声が思わず口から漏れる。
玄関のドアを再び開きたい衝動に駆られるが仕事には行かねばならない。
小さい頃は距離が遠くて時間が掛かる通学を苦に「どこでもドアがほしい!」と無邪気に言っていたものだが、今は違う。ただこの暑さから逃れたい。想いは切実で真剣。しかしこの愚かな願いは叶うわけがない。歩け、この足。

勇気を振り絞って一歩踏み出す。
もう一歩。もう一歩。
恨めしくアスファルトを睨みつけながら職場までの距離を縮めることに専念を始めた。

蝉がけたたましく鳴いている。
耳に届くその音が暑さに拍車を掛けているような気がしてならない。勿論、蝉が鳴いたからといって暑さに影響が及ぶわけではない。そう感じる理屈はちゃんと分かっている。ただただ、真夏にしか耳にしないこの音が暑さを連想させているだけ。夏の象徴は脳を連想だけで焼いていく。意識が熱でドロドロに溶けていきそうになるがなんとか堪えてみせる。姿を見せず鳴き続ける蝉は、こちらの心情などお構いなしに今日も一生懸命に命を燃やしている。

歩みを進めながら今日の仕事の段取りを考えることにした。暑さから気を逸らす作戦を図っての事だ。
まず、事務職の朝は職場の簡単な清掃から始める。そして金銭の確認と管理をして、それから帳簿の整理をしたり、通達の確認をしたり…電話対応にも追われることになるだろう。そういえば、あの従業員の書類は今日中に送付しなければ…昼休憩までには終わらせたい。それから頼まれていた資料の準備とあれの依頼とあれの印刷と…
今日も良い感じの忙しさになりそうである。

一通り思考を流したところで目線を上げた。
だが、周りの景色を確認し絶望する。
…まだここか。
家は見えなくなったがまだまだ近所だ。
時計を確認すると5分程しか経っていない。
そして再び感じる暑さに更なる絶望を覚える。
歩くしかない。歩く事でしかこの辛さは解決しないのだ。

今度は少し早めに歩いてみることにした。
この辛い時間を少しでも短縮したい。
アスファルトの粒が視界からどんどん流れて見えなくなる。その調子だ。もっともっと。
しかし、すぐに心が折れた。
暑さの前では脚の筋力も身体が持てる体力も儚く無力である。ただの早歩きなのに息が上がる。口から入る空気の温度にも嫌悪しか感じられない。視界が霞み、意識が遠退く感じに襲われる。

その時、背中に流れる一筋の汗。
突然現れた不快感にハッとすると共に気が触れそうな思いに駆られる。
帰宅時ならまだしも、これから出勤である。
汗の滲みた衣類とベタつく身体での勤務は御免だ。
しかし、歩みを緩めたと同時に吹き出した汗は少しずつ量を増し止まらなくなっている。
背中に流れる汗の筋が増えていく。
不快感を増し続ける身体を憂い心の底から思う。
あぁ、夏なんて嫌いだ。

アスファルトを睨みつけながら黙々と歩みを続けると、やがてまだ少々遠いが職場が見えてきた。
あと少し頑張れば、そこはオアシス。
職場に着いたらまず家から用意してきた冷たい麦茶をグビグビ飲んでやろう。
底が尽きそうだったやる気が僅かに回復するのを感じた。

しかし職場が見えてからが少し長い。
あと5分の距離。まだ5分もある距離。
右手には交通量の多い大きな道路、左手には駐車場が大きい店舗やコンビニが続く。街路樹の陰はスカスカで、有っても無くても意味を成さない。
この辺は陰がこれまで以上に無く、1番暑さを感じる場所なのだ。
最後の試練に身を引き締める。

歩行中の視線をアスファルトから職場に変更し、力強く歩みを進めた。ゆっくりと大きくなっていく職場。あと少し、あと少し。
自分で自分を鼓舞しながら一歩一歩、頑張って歩いた。

そしてやっと辿り着く。
念願の職場のドアの前。
日傘を畳みドアノブに手を掛けると、それはアスファルトに匹敵しそうな熱さを持っていた。
力を込めてドアを開くとサアッと室内の冷たい空気が身体を包み、これまでの苦労が全て報われるような感動で胸が震えた。

「おはようございます」
笑顔で言えた自分はきっと今日も良い仕事が出来るだろう。なんだかそういう気になってきた。
喉を通る冷たい麦茶は想像を遥かに上回って美味しかった。

〈完〉

※『“お茶代” 8月課題 by.脱輪氏 
「夏と○○」というタイトルで』
に参加しました。

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