死別
大好きな、わたしを救ってくれた人が、亡くなった。1月下旬、突然の交通事故だった。
まだそれを現実だと受け止められていない節があるが、吐き出すために書く。
その人はわたしが通信制高校に転入した3年前に、ちょうど赴任してきた先生。そしてわたしが所属する軽音楽部の顧問。
これまでの人生で、わたしは学校と教師という概念に良い思い出を持っていなかった。それどころか教師に虐げられ、傷つけられた経験しかなかった。
「もう教師なんて誰も信じない」。
そう決めて、学校では心を閉ざしてきた。
けれど、そんなわたしの心を、凍土を、壊してくれたのが先生だった。
入学後、さてどんな教師が来るものかと半ば恐れていた英語の授業の初日、仮面ライダーのトートバッグに沢山の資料を入れて教室に登場した先生は、堅苦しい授業のガイダンスなんてやらなかった。ただ柔和で優しい笑顔で、自分の人生史を黒板の手描きの図解と共に語っていた。でもそれは決して過去の自慢話だとか栄光だとか、そんなうざったいものではなくて。
珍しいがんに罹患し、鮮明な死の恐怖を味わったこと。
うつ病になり、生きる意味を失ったこと。
それでも今教壇に立ち、新しい生徒に会えたのがこの上なく嬉しいこと。
そんなことを、先生はふいに眠くなりそうなほどやさしい声で話していた。
「あなたたちはみんなきっと、今この席に座っておれの話を聞くまでに、おれの想像を絶するほど辛く苦しい思いを抱えて生きてきたと思います。それでもそれぞれが意志や目標を持って、もう一度学校で学ぼうとここに来てくれたこと、今この席で俺の話を聞いてくれていること、あなたたちのすべてを、おれは尊敬する。すごいよ、みんな。そして何より、生きていてくれてありがとう。おれはみんなに比べたら全然すごくもないし、偉くもない人間だけど、死の恐怖をがんで経したからこそ生きる尊さは理解しているつもりです。生きてここに居てくれて、ありがとう。」
この先生の言葉が、わたしのこれまでの苦しい過去をやさしく抱きしめてくれた。
どんなに記憶が降り積もっても、この言葉だけは忘れない自信があるくらい、強く強くその言葉の匂いを、優しさを、わたしは覚えている。
それから少し経って、わたしは軽音部に入部した。顧問が先生だと知った時、この上なくラッキーだと思った。もっと先生と仲良くなれると、密かに喜んでいた。先生はアマチュアの現役バンドマンだった。部活で使うエレキギターやアンプなどの機材はすべて先生の私物か、先生が自腹を切って買ってくれたもの。わたしは先生から黒い立派なエレキギターを借りて演奏していた。今まで初心者セットの安いギターしか触ったことのなかったわたしは、先生からギターを借りられる部活の時間が何よりも楽しみだった。誰よりも先生が弾くギターがかっこよかったけれど、先生はわたしにギターを貸してくれる度に、
「おれなんかよりもあなたがこうやって構えて、弾いている方が様になるよ」
と言ってくれた。
軽音部で先生と演奏する時が、何より幸せで代え難い時間だった。
英語のレポートの記入欄で、先生と他愛もない会話をするのが何より楽しかった。
テストの時にはいつも「おれも学生時代よく落書きしていたから」と解答用紙の最後に何を書いてもいいフリースペースを用意してくれた。
先生が「書いて書いて!」と無邪気な目で生徒に呼びかけるので、わたしは決まってフリースペースの記入は欠かさなかった。問題が解けなくてもフリースペースだけは絶対に記入した。
テスト中に監督しているその横顔を観察しながら先生の似顔絵を描いたり、フジファブリックとか、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTとか、お互いに好きなバンドの話を書いたりした。あとは最近ハマっているアニメの話とか、英語が難しい話なんかも。
結果的に最後になってしまった1月上旬の後期末テストのフリースペース。
わたしがミッシェルについて、「アベのギターのカッティングが鬼」だとか、「チバがいなくなってしまったことが寂しい」とか書いていた。
赤ペンで「チバさんのライブ、1回だけ生で見たことあるよ!もう1回くらい、見たかったなあ……」と先生の返事が書かれていて、アベのギターの話には「賛成 わかる」と矢印が引かれていた。先生は今頃チバの歌を、アベのギターと共に楽しんでいるんだろうかなんて思う。
また他愛もない話が、次の期末テストでもできると思っていた。
あたりまえにそこにずっと居てくれるのだと、思っていた。
あれから、先生が亡くなる直前まで校内発表に向けて一緒に練習していたスピッツの空も飛べるはずも聴けなくなってしまったし、先生の写真を見ても何故だか気が遠くなってぼんやりする。
「先生大好き!」
「先生今日も生きててくれてありがとうございます!」
「長生きしてください!」
先生から貰ったものを少しでも返したくて、何度も、何もない日でも言い続けた。先生がここにいてくれたおかげで、月並みだけれどわたしは救われたから。
その度に先生は「おれなんか……」と言うけれど、でも最後には「ありがとう!」「ならあなたも、ずっとここにいてね。」と笑ってくれた。
空も飛べるはずが無事に発表できたら、次はフジファブリックの若者のすべてでもやろうか、なんて約束した。
先生と交わした約束も明るい未来の話も、突然、わたしたちではどうしようもできない大きな力にめちゃくちゃにされた。わたしが先生に話した未来は、やっとで話せた明るい未来は、全部先生あってのものだったのに。まだ果たせてないもの、たくさんあるのに。先生がいたから、こんなどうしようもなく苦しい世界も捨てたものじゃないと思えたのに。先生、あなたがいないなら、わたしの世界はまた恐ろしくなる。先生がここにいて、またわたしの痛みを抱きしめてほしかった。わたしを今まで傷つけてきた存在に、誰よりも怒ってくれたし、わたしの苦しみに憂いてくれた。そんなあなたが、先生が、わたしにとって一番の星だった。わたしが彷徨う帳を照らす何よりも明るい光だった。
それがたった一瞬で奪われてしまったことに、今もただ呆然としている。怒りも悲しみも全部ごちゃ混ぜになって、自分でも訳が分からなくなる。
誰も悪くないのに、また奈落に突き落とされた。
その底から這い上がれる日なんてもう来ないんじゃないかと思うくらい、苦しくて辛い。毎晩考えては頭が痛くなって、眠れない。
今は先生が居ない世界で、かろうじて今日を生き延びるための手立てだけ探している。
先生のおもかげを何処かに追いながら、ずっと。
先生、せめてもう一度だけでいいから、会いたい。そして次に会う時には、もうどこにも行かないで。
まだ受け入れられない。
本当はもっと先生と過ごした日々を書きたいけれど、こうして文字に起こすだけで心がじくじくと痛むから、今はこのくらいにする。
先生は悪くないよ。ごめん、先生。
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