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購買する行為を消費するという概念で一般的には捉えています。
消費されないのは単純には購買されにくいモノであると考えられています。
そこで消費の現在を見る事で概念の変化に気付かされるのです。

若い世代の消費する価値認識、相対的な市場動向からは、
・モノが売れない
・モノを持ちたくない
上記2点に集約されているので、この段階から生活必需性に乏しいもの程、遠ざけられていくことが予想されます。

恐らく彼ら世代にとって、最大の生活必需は通信におけるガジェット、スマートフォンにまつわるアイテムにかなりの消費シェアが割かれているのは想像に難くありません。
つまりメーカーはいろいろ駆使して、アイテムに認識されるような商品開発、特にアプリ化してスマートフォンというプラットホームへの連動を急いでいる現状なのでしょう。
結果、通販が主流にならざるを得ないのですが、例えば観光や飲食店へのオススメ、口コミしやすい媒体は新しい形からの消費経路、選択肢として有効と見なされます。

膨大な情報提供が可能であるインターネットと向き合って、生きていかざるを得ない新しい形である生活パターンとは、情報がこれまで与えられたモノから自ら取りにいくモノに変わった点の違いがあるということです。
自ら取りにいかなければ‘情報弱者’のフィールドに置かれ上意下達を受け入れるでしかない、権力者にとって都合の良い消費者にさせられてしまう可能性がかなり高いと推察します。
さらに様々な環境力点に軸足をおいた経済活動を促す動きも相まって、消費マインドは自ずと低下がベースとなります。

先日、NHKでの番組で日本女性の生理回数が生涯450回に及ぶと70年前の9倍であり、初産の平均年齢が30.7歳となり、様々な身体への深刻な影響があるとのレポートを視聴しました。そうした現状の最大ポイントは経済の問題がやはり肝ではないかと感じました。

パイが縮小する中で加えて消費対象が生活必需に限定されていく中で、共働きがスタンダード化したという現実を、女性参画や機会平等のスローガン、テーマを謳うことで社会構造の負の部分を見せない為の隠れ蓑になっている懸念を大いに感じてやまないのです。

便利さは合理主義を生み、結果、人とのコミュニケーションが希薄化し、消費概念も躊躇する世界が出来上がってしまったかのように映る日本社会。希望を見出だすためにもコミュニケーションの場や機会の創出こそ、最も必要な取り組むべき事業に私は思います。

誰しも消費する価値を改めて考えなければならない時期だと感じるのです。

9月26日、地元下関での野口五郎公演。
客席はソーシャルディスタンスを保って行われたのですが、勿論公演は非の打ち所のない至高の時間にも関わらず、釈然としない気持ちもありました。満員御礼の会場がベストに他なりません。

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