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野花のひかり

 道端に咲く、小さな野花がうつくしい。雑草と言われ、ありふれていると思われる花が多いが、一つ一つ名前があり、緑の景色の、細やかな刺繍のように、四季のよそおいを彩っている。

 ラテン語の格言に、「小さいとしても、うつくしい」(pauca, sed bona)という言葉がある。私の気に入っている言葉だ。ただ、英訳では quality over quantity「量より質」と訳されていて、違和感を感じる。

 ラテン語の意味は、花について、たとえ大輪でなくとも、小さく花びらを咲かせる花がうつくしい、というふうにとれる(ラテン語の直訳では little, but fine。形容詞はいずれも女性形で、花を連想させる)。直感的に、野花をさしていると思い、野花は数多く咲くため、「量より質」という訳が、不自然にみえてしまう。

 問題は、「量」という訳にある。格言は、何らかの点で「小さく」「足りない」としても、しかしそれはすぐれている、と言っている。英訳では、その「足りない」を「量的に少ない」と解釈して、量ではない、質のよさを読み取っている。

 では、野花の例はどうなのか。野花には、これといった特質もなく、目立つ形姿も見受けられず、希少な貴さもない。道を歩けば、ほんのすこしのアスファルトの割れ目に根をつけて、けなげに葉をのばし、素朴で単純な、小さく控えめな花を咲かせている。その質朴な花は、歩く道の、いたるところに咲き、季節になると咲いているのが、当たり前のように思える。

 つまり、野花には、値段をつけて取り引きできるような、価値が少ない。野花をプランターに植えて、売りに出しても、誰でも簡単に自分で拾えるため、買い手はつかない。その点、野花の価値はないにひとしく、値段としては、何も評価できない。

 しかし、だからといって、野花がうつくしくないかと言うと、そのようなことはない。野花に値段がつけられないのは、金銭的な価値という、需要と供給によって判断される基準に、野花がはいらないからだ。お金は、あくまでモノとサービスの交換を円滑にするための手段で、野花は、交換する意味が、とくにないために、価値が低い。

 ラテン語の格言が言いたいのは、そのように、人目をひいて、高い価値を世間に認められて、さかんに交換されるような、大きな価値がないとしても、それでも、その花には、こころを癒す風合いと、純粋に美的なうつくしさがある、ということ。交換を基準とする価値観と、自分ひとりが、自然のなかで心地よく思う価値観の、反比例する場面を、この格言はうまく要約して、お金にならないとしても、こころを満たす清らかさを、そなえるものがあると、語っている。

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