幸福とは何か、それを手にするために必要な2つの条件

せっかく生まれてきたのなら、誰もが幸せに生きたいと思いますよね。古代から哲学者や思想家たちは幸福というものを定義しようとしてきました。しかし、未だにすべての人々が納得する答えは出せていません。

スイスの法学者、カール・ヒルティはこのように言っています。

寝床につくとき、翌朝起きることを楽しみにしている人間は、幸福である。

これは確かに一つの真理だと思います。

それでは初めに、歴代の賢者たちがどのように考えていたのかを見ていきたいと思います。

まずは、誰もが聞いたことのある古代ギリシアの哲学者、アリストテレスです。彼は『ニコマコス倫理学』で、

幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることである。

と説きました。また、人間の営みにはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があると語っています。

続いて、同じく古代ギリシアのエピクテトスはこう言っています。

己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きよ

彼はストイックという言葉の語源であるストア派の哲学者なので、自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服していくかということを考えていました。

17世紀オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザは『エチカ』で、

物事を永遠の相のもとで見ることが幸福、すなわち神に対する知的愛への道である。

と言っています。これは一見すると宗教色が強い言葉のように捉えられがちですが、スピノザの言っている神とは、キリスト教のイエスやユダヤ教のヤハウェのことではなく、あらゆる万物を信仰対象として捉えたアニミズムに近い神即自然という非人格的な概念のことです。

厭世主義の哲学者、ドイツのアルトゥル・ショーペンハウアーは、

目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。

と説きました。また、『意志と表象としての世界』の第4部では、自他の区別を去った意志を否定せよと言っています。

冒頭でも引用したスイスのカール・ヒルティは、

神のそば近くにあることが永続的な幸福を約束する。

と述べています。彼の思想はキリスト教色が強く、聖書の言葉をかなり重要視していました。

フランス第二帝政ノルマンディーの、アランというペンネームで活動したエミール=オーギュスト・シャルティエは、

健全な身体によって心の平静を得ること。すべての不運やつまらぬ物事に対して、上機嫌にふるまうこと。社会的礼節が重要である。

としました。

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、

己の関心を外部に向け、活動的に生きよ

と説きました。

このヒルティ、アラン、ラッセルそれぞれの『幸福論』というタイトルの本は、日本では三大幸福論と呼ばれています。興味があれば概要欄に本のリンクを貼っておきます。とはいえ、「幸福論」と検索して一番最初に出てくるのは椎名林檎の1998年のデビュー曲です。すなわち現代の日本では、カール・ヒルティ、アランことエミール=オーギュスト・シャルティエ、バートランド・ラッセル、椎名林檎を「四大幸福論」として括るべきでしょう。

冗談はさておき、ここからが本題です。

これらを受けて、21世紀日本の思想家、アストラルモーションはどのように幸福を定義するのか。

まず、ひとつ目の条件と考えるのは、アランの言うように、身体が健康であり、心が落ち着いていることでしょう。病気になったり大怪我をしたりしていれば行動が制限されますし、何かに腹を立てたり憤ったり、嘆き悲しんだり、精神が崩壊している状態で幸福になれるとは思えません。

不摂生をせず、不注意による怪我を避け、物事や関わる人の負の側面ではなく善い部分を見るように心がけることです。あるいは、何かに心がかき乱されるようなときは、大自然の中に身を置き、しばらく瞑想をしていれば、自分が何に対してもがき苦しんでいたのか忘れられます。日々のルーティーンからあえて外れ、いったん環境を変えてみてください。

そしてもうひとつの要素が、自由を奪われていないということです。北朝鮮による拉致や中国共産党による新疆ウイグル自治区の拷問と洗脳、臓器売買、ナチスのホロコーストなど、世の中には何も悪いことをしていなくても理不尽に自由を奪われる人々がいます。彼らを幸福だと思いますか。できることなら代わってあげたいと思いますか。聖母マリアですらそれはできないと思います。

人間は社会的な生き物であり、家族・学校・職場・国家など何かしらの組織に属して生活しています。それらの組織には明文化されている法律、または暗黙のルールのようなものが存在し、子どもの頃からそこから外れた言動をしてはいけないと教えられて育ちます。

しかし、よく考えてみてください。世の中に変革をもたらしてきたのは、ほとんどがそこから逸脱した人たちです。ルールというものは、社会に秩序をもたらすために存在するものです。もちろん、ほぼすべての人々がルールを守っていることによって組織は成立します。ですが、ごく一部のルールからはみ出た発想をした人だけが世界を変えていくのです。

昭和の終わりから平成初期にかけて活躍したミュージシャンの尾崎豊は若者たちに「自由になりたくないかい」と問い続けましたが、結局本人が一番自由になれないまま26歳の若さで亡くなりました。芸能などの世界で大金を稼いだ人たちや宝くじで高額当選した人たちの多くが不幸な運命を辿ってしまうのはなぜでしょうか。

お金持ちになると幸せになれるという人と幸せになれないという人の二極化した意見がありますが、幸福を考える上で、お金があるかどうかは争点ではありません。世の中のほとんどの人たちは日々の生活のために労働をすることに時間を割きすぎていて、人生において本当に大切なものは何かという哲学的な思考をする暇がありません。資本主義の犠牲者たちは心に余裕がないため、些細なことに苛立ち、落ち込み、本来ならば苦しむ必要がない事柄に苦しんでいます。そういった状況では、お金を稼ぐことに必死になりすぎて、自分のしている仕事や活動が本当に世の中にとって価値のあることなのかを冷静に考えることもできません。

お金持ちになって必死に日銭を稼ぐ必要がなくなることによって、本当に自分のやりたいこと、本当に世の中に貢献するには何をしたらいいのかを初めて考えることができるようになります。元々は貧乏だった境遇から成り上がった富裕層の方たちが、恵まれない人たちへ巨額の寄付をしたりすることに生き甲斐を見出すのはそのためです。富の再分配ということです。心に余裕のある人は、たとえお金持ちでなくても積極的に人助けをしようとします。ですが、気をつけていただきたいのは、人を助けるときは魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えるべきだということです。一時的な金銭や物資の支援では、与えられた側はそれに依存して求め続けるようになってしまいます。彼ら自身が自らの手で富を得ることができるように支援することこそ、本当の社会貢献です。

自由は与えられるものではなく、自ら手に入れるものです。誰かが何とかしてくれると思ったり、誰かの顔色を伺って手探りで生きていては、いつまでも同じ繰り返しであり、人生を変えることはできません。勇気を出して踏み出すしかないのです。やりたいことだけやって生きていくことはできないと20世紀までの人たちは言っていましたが、果たしてそうでしょうか。やらされている、強要されているという感覚を捨て、自分の意志でやりたくてやっているという自己洗脳をしてしまえばいいと思います。物事はすべて、それを自分の心がどう捉えるか次第です。例えば、バンジージャンプはやりたい人にとっては数万円払うことを安く感じるものですが、やりたくない人にとっては、たとえお金をもらえるとしてもやりたくないわけです。しかし、やりたくないと言っていた人が、いざ飛んだあとはもう一度やりたいと言い出すことも珍しくありません。つまり、怖いという思い込みが自分の深層心理に眠っている本当の感情を抑制していただけだったということです。

多くの成功哲学の書籍には、自己を洗脳して潜在意識に成功イメージを植え付けることで、無意識的に成功に近づくために必要な行動を選択していくことが可能になると書かれています。自分ができないと思い込んでいることはきっとできません。できると思っていることはきっとできます。100年以上前にSF小説で書かれたような限りなく空想に近いアイディアでも、現在では実現したものが多数あります。それは実現できると信じて行動した人たちが叶えた夢なのです。この先も世界は、今の我々では想像もつかないようなことが次々に実現していくのだと思います。未来を見るための唯一の方法は、生き続けることです。

ということで、アストラルモーションが考える幸福の定義をまとめると、

(1)心と身体を健康に保ち、善い側面を見る癖をつける

(2)何ものにも束縛されない自由な発想を持つ

この2つの要素を手に入れることです。もう手に入れているのならば、あなたは今こそまさに幸福な状態です。それを実感しているか、していないか。人間という生き物は欲が深いので、さらにもっとを求めてしまいがちですが、実はすでにゴールに達しているのかもしれません。なぜ子どもの多くが幸福度が高く、大人の幸福度が低いのかを考えてみてください。実は単純に、子どもの頃は悩むほどの知識がなかっただけです。大人は知らなくてもいいことまで知りすぎてしまったからこそ、苦しむことになります。

幸福度は他人と比べるのではなく、自分の人生の中でのよかった時期と悪かった時期を比較すれば、昔よりは良くなったと思えることが何かあるはずです。今が幸せだと思えていない人は、健康や自由を奪われてから、初めてあのときは幸せだったのだと気づきます。生きることは本来、そんなに難しいことではありません。社会に属しているからこそ辛くなったり楽しくなったりするわけで、社会というものをどう料理するかは自分次第だということです。

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