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忘れられない奇妙な味――柴田錬三郎「さかだち」

【マガジン「読み返したくなる短篇小説」バックナンバー】

 私がこの短篇を初めて読んだのは、吉行淳之介が編纂したアンソロジー『奇妙な味の小説』(1970、立風書房)でだった。柴錬さんの小説は後にも先にもこれ一篇しか読んだことがなく、正直これからもたぶん読まないと思う。そういう作家の作品と思わず知らず出会えることが、アンソロジーの楽しいところだ。とりわけこの『奇妙な味の小説』は以前も触れたとおり、私にとって発見と喜びがとても多かった一冊で、古本屋で買い求めてからもう15年くらい経つけれど、いまだによく読み返している。

 さて「さかだち」である。舞台は昭和19年8月。醤油を2合飲みほし仮病をつかって召集を免れた須藤三郎が、1年後に再び召集令状を受け取り、荷物をまとめて逃げ出すところから物語は始まる。といってもその先何が起こるかは、数行前にワケあって語り手の口から投げやりな感じでだいたいのところ示唆されてしまっており、読者は冒頭から「この青年は行き着いた先でひとりの売春婦と出会って一夜を共にするが、その女はすぐに自殺する」というプロットを知りながら文字を追うハメに。定められた結末に向かってだらだら続く、物憂げで、退廃的で、薄ら寒い男女のやり取り。そんなムードにあてられてこちらまで「グルーミイな、単調な」気分になってきたところで、唐突にそれは起こる。

女は、よいしょと掛声をかけて立ちあがると、着崩れを直し、裾を、両の踵ではさんでおいて、畳へ、両手を置いた。首を擡げて、じっと須藤の方を、真剣な目つきで眺めてから、足をはねあげた。

 これに続く見事で奇怪な「さかだち」の描写を、ここで引用するわけにはいかない。あの恐ろしくも素晴らしい二十数行に、私はいつも打ちのめされる。須藤の自惚れや妄想に浸りきり同化していた頭が瞬時に晴れ渡り、次の瞬間には別の黒雲でまた満ちる。

 なぜ「さかだち」なのか。いやしかし確かに「さかだち」だ。あそこで女が何かするとしたら「さかだち」しかない。そんなふうに飲み込ませる「さかだち」を書ける手腕。どれだけ説明しようともし尽くせない、わけのわからないまさに「奇妙な味」を醸す技。それが作家というものが持つべき才能なのだとしたら、自分にはそんなのは到底……などと、十数年前、これを読んだある若者は肩を落としたものだった。なつかしや。

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