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aki先生、インドネシアでヒロシ号に乗って遠足に行く

私の赴任先は、中部ジャワ州の古都ソロ(現在の名称はスラカルタ)の、国立障害社会リハビリセンターだ。1950年代にスハルソ博士によって設立された傷痍軍人向けのリハビリ施設が、今は身体・精神・発達障害、孤児の養護施設として編成替えされたものだ。100人位の障害者が平均6ヶ月くらいの期間、ここで生活し、職業訓練や作業療法、理学療法を受けている。いくつか寮があって、そこで集団生活をしている。中には保護者と住んでいる人、週末は家族が迎えに来て実家に帰る人もいる。施設外に住む障害者にもサービスを提供している。


奥に私の宿舎がある

私は彼らに会うのをジャカルタ入りしてから本当にとても楽しみにしていた。これから2年間は、この施設内の職員宿舎が私の家、障害利用者や孤児たち、ディレクターを頂点に職員、外部から招聘されてくる専科の先生方が私の家族になるから。

思っていた通り、または思っていた以上に私は温かくエキサイティングに迎えていただいた。みんな私に、ニコニコ微笑んで挨拶してくれる。スマホで私と写真を取ってインスタに載せようとする。そのために順番を待ってくれている。若い人は年長者の手を取ってその甲にかがんだ自分の額を軽くつけて敬意を示す。日本ではそういう習慣がないから、私にはこれは大変に面はゆい。緊張してしまう。一般に女性から年長の男性は握手か、祈りのポーズをして少しかがむと、その指先を同様に祈りのポーズで優しく受けてくれる。ケースバイケースで、単に右手の軽い握手も多いように思う。女性同士はフランスのように両頬にbisouするから、私にはやりやすかった。

赴任早々、さっそくみんなが行く遠足に連れて行ってもらった。年に数回だそうだから、みなさんと近づきになるにはグッドタイミングだ。どういう遠足でどこへ行って何をするのかもまだ拙いインドネシア語ではわからず、実際集合して驚いた。巨大な観光貸切バスが3台、男女別に利用者たちが1台づつ、女性の上級職員がもう1台に乗り込んだのだが、そのバスにはHIROSHIのロゴが。インドネシアでは確かに、日本製の機械が絶大なシェアを占めており、車やバイクは大多数が日本ブランドだ。他にも日本風のネーミングやキャッチフレーズは、英語と並んで至る所に見られる。小さな袋菓子類や洗剤類にも付いていて、高品質でハイセンスであることを日本語風の名前が想起させるのだと思う。日本でも英語かフランス語にそういうイメージを持ったが最後、今でもそうであるように。

HIROSHIと勇ましいロゴを前面にステッカーされたバスが他の2台に続いてジャカルタよりずっとエレガントなソロの街を抜けて郊外をしばらく行くその先、田園風景に変わってゆく様をバスの窓から眺めていると、何かが懐かしくて、何かが逞しく、何かが可愛かった。赤い大地をしっかりくわえて伸びたバナナの木、葉野菜の畑、ペンキが剥げた倉庫、家々の庭で土を突いている鶏、強い陽光に負けない青い水田、朱色の屋根付きの私道の入り口の門、家の前で何をするでもなく裸足でゆったり座っている老人、何もかもが天然色で、南半球の赤道の少し下、生き物が熱帯の島でこんな風に生きている姿を見て、何十年か前にノールカップで北極海を臨んだ時とはまた違う自然のたくましさに大いに力づけられる気がした。


スタッフも逞しい
可愛いものが大好き

1時間強も走って着いたのは、少し山に入った広大な自然体験学習施設のようなところで、ピザ窯で自分でトッピングしたピザを焼いたりもできるレストランや、川遊びをしたり、ウサギや羊、牛などの小動物とふれあえる飼育小屋、葉物野菜を耕作している畑などがあり、青春真っ只中のティーンエイジャーの障害者のみんなと、ゲームをしたりダンスを踊ったり、半日アウティングを愉快に過ごした。ヒクヒクと鼻を動かして震えている子ウサギを抱いて可愛がる彼らの姿は、健常な若者と何も変わらない。K-popが好きで可愛いものが好きで、人生に少し不安を抱いていて寂しがり屋で、世界中きっとどこにもいるお茶目でセンシティブな10代なのだ。私は病院以外で初めて車椅子を押させてもらったのだが、坂や段差のやりくりなど、普段から鍛えている利用者の体力や知恵は相当なものだ。私の出る幕はますます無いなぁと思いつつ、それでも教える前に悟る聡明な彼女たちのそばにいたくて、学ばせてもらいたくて、私が車椅子を押さない方が安心だったかもしれないけれども最後まで寄り添わせてもらった。


旧式の車椅子は重い

薄々そう思っていたが、私の方がお世話になってこれからこの国で2年間学ぶのだと、この日はっきりと自覚した。でもきっとteaching is learningのはずだから、怯まず懐に飛び込んでみたい。

帰りのHIROSHI号はファンファーレのような長くておどけたクラクションを鳴らしながら、緩やかな下り坂を道幅いっぱいにして下って行った。先生方も私もそうだったが、分乗した他のバスの彼らも疲れて汗をかいてウトウトしていたに違いない。

百聞は一見に如かずの日々がこんなふうに続く。

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