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海が大好きな元気シングルオカン。泣き笑いしながら一人娘と二人三脚でやって来たのにコロナ…

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海が大好きな元気シングルオカン。泣き笑いしながら一人娘と二人三脚でやって来たのにコロナ禍で26年勤めた会社が解散。じゃあ、と心機一転、青年海外協力隊に応募し、インドネシアで手工芸の先生になることに。さて、aki先生の運命や如何に。24ヶ月の奮闘記を面白おかしく綴っていきます!

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aki先生インドネシアへ行く

そんなこんなで赤道を超えて初めて来たジャカルタは、ピカピカの高層ビルが立ち並び、携帯の決済アプリや電子マネーなどのITツールを日本同様に使いこなし、ラグジュアリーブランドがズラリと入ったグランドインドネシア、スナヤンプラザなど、顔が映りそうなくらいにツルツルのタイルの床の大型ショッピングモールで食事をする会社員や、中堅層の通勤客が地下鉄やバス、自家用車で会社へ向かう大都会だった。 ホテルに泊まり、オフィスコンプレックスに通って終日をエアコンの中で過ごし、お昼はローソンでおに

    • aki先生インドネシアで入院する 2/2

      3日目、回数はずっと減ってもしつこく下痢は続く。主治医のDidit先生は中国系の優しい優しいおじさん(私と同じくらいの年恰好💦)だ。「明日はエコー検査がありますから、午前3時からプアサ(絶食)し、7時から排尿も控えて8時からのエコー検査に備えてくださいね。」と、前夜22時に血圧を測りに来たナースが早口(本人にとっては日本人の私にわかるようにゆっくり言った)で説明してくれた時、私は目をパチクリ、何の目的で何をせよ、と言われているのかがさっぱりわからず、何度も聞き返して若い彼女を

      • aki先生インドネシアで入院する 1/2

        私は実は身体が丈夫で、この歳になるまで出産以外で入院したことがない。 疲れるとまず口内炎か舌炎、膀胱炎、乾燥していると副鼻腔炎、咽頭炎など、何らかのサインが出て活動を続行できなくなるので、その時点で休息する。方法は食っちゃ寝だ。ある意味便利な体質とも言える。学校をすべての学年に渡って無欠席で通せたためしがないのに、大病はしたことがない。両親と水泳に感謝だ。 協力隊員は基本的に私もそうだが健康優良児だ。ところが、インドネシアに来てちょうど1ヶ月目、2ヶ月目、3ヶ月目に38°

        • aki先生インドネシアで教育の意味を考える

          2つの黒目がちな瞳が私を真っ直ぐに見つめながらみるみる潤んでいく。 現在のセンターは、さまざまな身体障害者だけではなく、精神障害者、犯罪被害者、孤児も合わせてサポートしているので、本来なら専門家の定期的なカウンセリングが必要な人や、複雑な境遇で育っていておそらく生涯に渡って生きづらさを抱えるであろう人も一緒くたに学んでいる。国立の施設だからトップが変わると方針も変わる。現場で運営する側も楽ではない。だが、もともと人間は勝手にカテゴリ仕訳されて十把一絡げにされていいものではな

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        aki先生インドネシアへ行く

          aki先生インドネシアで踊る

          ヌサンタラダンスとは、一曲のエスニック音楽の中にインドネシアの各地の伝統舞踊やモダンダンスを組み合わせたものだ。 インドネシアは300もの民族が合体してできた国で、世界最大の群島国家だ。そのインドネシア語での国名は、Negara Kesatuan Republik Indonesia, Abb: NKRI 。Negaraは英語のCountry、KesatuanはUnifyだ。それら300の各々の民族はインドネシア全体で800以上の多くの島に分かれていた。生活圏を海が隔ててい

          aki先生インドネシアで踊る

          aki先生インドネシアでパンケーキをご馳走する

          今日は大統領選挙。全有権者の投票の結果、今年の10月で任期満了のジョコ大統領の後任が決まる。 私たちJOCVが、JICA事務所から選挙戦のトラブルに巻き込まれないよう、無用な外出は慎むべしと厳に言い渡されているその日が来た。 私は外国人なので当然選挙には関係がないが、ここ地方都市ソロでも、数日前市内の食料品店に買い物に出た時、集会をひけた会衆が市民会館から大挙して出てくるのに行き合った。怖い感じはしなかったが、バティックで正装した紳士達が切れずに次から次へと出てくるので、

          aki先生インドネシアでパンケーキをご馳走する

          aki先生インドネシアの銀の町へ行く

          金銀はなぜ人間を惹きつけるのだろう? 人間だけでなくドラゴンにも愛着させていたり、呪術起源とかM細胞とか諸説あるようだ。今は貴金属の希少性や投資価値、産業利用の有効性で理由づけするが、私はその永遠に変わらない輝きが終わりある人生を知る人間を惹きつけるのだと思う。人を美しく見せ、自身が死んだ後も変わりなく輝き続け、子々孫々に伝えうる形見に、生涯の短かった古代の人は、現代よりももっと思い入れたのではないか。 まだメッキでできたおもちゃの指輪しか持っていなかった子どもの頃、母の

          aki先生インドネシアの銀の町へ行く

          aki先生インドネシアで祈る

          インドネシア人口の88%以上はムスリムで、クリスチャン、ヒンドゥー、仏教は少数派である。ムスリムたちは毎日毎日朝4時から1日5回の礼拝を守る。なんなら拡声器で町中にモスクの祈りの放送が流れる。生活がそれで終始するから、インドネシア人にとって一番大事なことだと理解しなければならないのだが、日本で生きてきた私にはイスラム教に関する情報が多くない。旧約聖書も少しは読んだから、豚肉とアルコールがなぜ禁忌であるのかとか、肌で理解しているつもりだ。だが実際、ラマダンがあるうえ、ムスリムの

          aki先生インドネシアで祈る

          aki先生、インドネシアでヒロシ号に乗って遠足に行く

          私の赴任先は、中部ジャワ州の古都ソロ(現在の名称はスラカルタ)の、国立障害社会リハビリセンターだ。1950年代にスハルソ博士によって設立された傷痍軍人向けのリハビリ施設が、今は身体・精神・発達障害、孤児の養護施設として編成替えされたものだ。100人位の障害者が平均6ヶ月くらいの期間、ここで生活し、職業訓練や作業療法、理学療法を受けている。いくつか寮があって、そこで集団生活をしている。中には保護者と住んでいる人、週末は家族が迎えに来て実家に帰る人もいる。施設外に住む障害者にもサ

          aki先生、インドネシアでヒロシ号に乗って遠足に行く

          aki先生、インドネシアでスイミングクラブに入る

          風邪が治り、ようやく任地スラカルタ市に赴任して4日目。 夕方散歩がてら、宿舎の近くにあるプールに見学に行ってみた。 そこには50mのアウトドアプールがあり、おんぼろでペイントはハゲハゲ、昭和40年代にあった公営プールを思い出す。水しか出ない、でもちゃんと男女別シャワールームや更衣室もあり、数人のお母さんたちがプールサイドで選手コースの子どもたちの練習をみていた。子どもたちは9〜18歳ぐらい。流れるようにだいたい5km位、クロールのインターバル中心に上手に泳ぐ姿を見て、嬉しく

          aki先生、インドネシアでスイミングクラブに入る

          aki先生インドネシアで涙する

          この間、心のみずみずしい人に出会うことが何度かあった。日本にいて忙しすぎて、周囲の人の心の動きが読めなくて、寄り添う言葉をうまくかけることができない日々を残念に思っていたから、協力隊に志願して自分を見つめ直す時間をもらううち、資本主義社会とはなんとも忙しく、物質的な不足なくありがたい反面、物質で充足できないことがあるからこそ寄り添おうとする人たちから差し伸べられた手に、狭量な自分が気づけず過ごしてきたことも多いと、つくづく思った。インドネシアに来て早くも1ヶ月、とにかくとにか

          aki先生インドネシアで涙する

          aki先生インドネシアで風邪をひく

          ジョグジャに着いた頃、風邪が流行っていて、担任(生徒1人につき1人のリーダー先生がつき、アルバイトの先生が何人かマンツーマンで入れ替わり立ち替わりレッスンする方式)の先生も、ホームステイ先のマザーも、例の私の小さな仲良しフェリも、毎日フェリと遊びにくる遠縁のお嬢さんイオナも、みんな盛んに咳をしており、心配した。そして私もその風邪をやっぱりバッチリもらってしまった。 20代の終わり頃の2年を私はパリで過ごしたが、どんな楽しい暮らしでも、外国生活というのは、日本慣れた生活より幾

          aki先生インドネシアで風邪をひく

          aki先生ガムランを演奏する

          ホームステイ先のご主人はジャカルタで長年働いていたが、15年前脱サラして故郷へUターンして、畑たっだ土地を買い、レストランやスタジオを経営している。伝統的な佇まいの平屋建ての母屋には、玄関のタタキを素足で上がってすぐの、大きなシャンデリアの下がっているルアン・タムという大きな応接間兼リビングダイニングを主寝室以外に4つのベッドルームが囲んでいて、それぞれにシャワールーム兼トイレがついている。そのうちひとつに私が、もう一つに敷地内のレストランの調理師が、もう一つに18歳くらいの

          aki先生ガムランを演奏する

          aki先生インドネシアで最初のレッスンを実施する

          ジョグジャでお世話になっているホームステイ先は、お婿さん、すなわち孫娘フェリのお父さんが、日系企業に勤めていて2年間日本に住んだこともある。来年3月で9歳のフェリはそろそろはにかむ歳になっているが、外国人である私への挨拶や、話す時のフォリナートークで気配りを見せる。お誕生日はいつ?とインドネシア語で訊ねると、March 20! と返ってきた。英語で選択授業する小学校に行き、英会話を習っているようだ。誕生日を覚えておかなきゃね。日本の小学生同様、サンリオのキャラクターが大好きだ

          aki先生インドネシアで最初のレッスンを実施する

          aki先生インド洋を初めて観る

          土曜日の午後、語学学校の先生たちが車でpantai parangtritisという海岸へ連れて行ってくれた。ジャワ島の南側の海だ。 初めて見るインドネシアの海は、驚きだった。 特に嵐がきているわけではなく、ただいつも海流が強く、 圧倒的な烈しさで、高いうねりが波のチューブを巻いては次々に打ち寄せる。 常時遊泳禁止だそうだ。 実際、波が強すぎて誰も入って行かないのだが、 泳げない海にたくさん人が繰り出し、たくさん海の家が並んで、 順調に商売をしているのには理由があった。

          aki先生インド洋を初めて観る

          aki先生インドネシアの生活を学ぶ

          ジョグジャのホームステイ先に着いた翌朝は、朝4時のモスクから聞こえる祈りの声と様々な鳥の声で目が覚めた。一番鶏より早く、平屋建ての母屋の私の寝室の屋根に降りた鳥の足音とさえずりとか、まだ雨戸を閉めたままのその寝室で横になって白み始めた外の様子に耳を澄ませた。 緑深い大地やところどころに雲を突き抜けてそびえる3000m級の山々を眼下に観ながら、ジャカルタから1時間を双発のプロペラ機でジャワ島の東、ジョグジャカルタ市へ仲間6名とともに飛んだ。 ジョグジャに来たのは、ホームステ

          aki先生インドネシアの生活を学ぶ